情熱のない犯罪 / 5



 後日の夜、土方は筒井と極秘に話し合いを行うべくとある料亭を訪れていた。
 接待でも護衛でも無いのだから、と言われ供されたものは、庭園、部屋、調度品、料理、酒。何れもあからさまに贅を尽くしたと知れる様な華美なものではなく、落ち着いた静かな高級感──或いは威圧感──を与えるものばかりで、土方は内心で舌を巻いた。これでは逆接待と取られかねない、そんな持て成しである。その質は隊服を纏った『真選組副長』になら兎も角、土方の様な人間の格には明かに不釣り合いと言えた。
 辛うじて腰に幕臣の証でもある得物を佩いている事だけが、田舎上がりの卑賤の身をそこに置いている事を許している。そんな圧迫感さえ憶えずにいられない。
 店は筒井の一族の贔屓なのか、店主らしき男は招かれた土方を通す間も不躾な態度は(少なくとも表面上には)一切見せる事なく、また余計な詮索をする事もなく、淡々と仕事をこなした。
 そうして通された部屋で簡素な挨拶の後、名目通りの食事会が始まった。明かに高級と知れる膳をマヨネーズ塗れにするのは流石に憚られたので、土方は味気のない食事をちまちまと箸で突きつつ、お愛想で酒を酌み交わす。筒井は余り口を開かない土方の様子を特に気にするでもなく、機嫌の良さそうな風情で世間話を投げて寄越して来る。
 『友人との会食』。取り決めたその体裁通り、形ばかりはそうと取れる様な時間が経過して行くが、正直な所土方は少々焦れて来ていた。筒井が件の真選組副長暗殺未遂事件の仔細をどうにかして知り得ており、有力な情報を掴んでいるのであればその要点だけを聞き出してとっとと立ち去りたいと言うのが何しろ本音である。金を掛けていると知れる食事も酒も何ら土方の心を揺り動かしたりはしない。
 「お代わりはどうだね」
 「いえ、まだこの後職務が残っております故、そろそろ控えさせて頂きたく」
 「それはそれは、実に勤勉な事だ。君の様な人間を警察組織の者として誇りに思うよ」
 そんな土方の焦れを感じ取ったのか、酒を勧める様な素振りでさりげなく世間話を切って、筒井は手酌で自らの杯を満たした。「勿体ないお言葉を」決まり通りの挨拶を返すと土方は手にしていた杯を膳の上へと戻した。
 朱塗りの漆器には金粉で精緻な、流水と桔梗の紋様が描かれている。底に僅かに残った透明な清酒が、室内のぬらりとした輝きを反射し紋様に艶やかな彩りを添えて揺れるのを横目に、土方はその侭無言で筒井が一献を飲み終えるのを待った。無駄話を決まり文句の様な遣り取りで切ったのだから、続きを──本題を切り出す筈だと、ただじっと。
 この料亭を訪れる時、土方は私服姿でそして一人であった。誰にも居場所は告げずに出て来ている。暗殺未遂の頻発している最中だが、土方には元よりその程度の些事に怖じけるつもりは無かった。気に食わない、とはやはり思うが。
 指定された店の名前からその格は知り得ていたので、着物も羽織も帯も極力マシなものを選んではいる。袴を穿くべきかとも思ったが、時間も余り無かったので諦めた。今風にならばドレスコードと言った所か、格も身なりも明かに『友人との会食』として筒井の様なエリートの持て成しを受ける様なものでは無いと一目で知れるだろう。
 然し筒井の指定したこの店と言う場所を土方が渋らなかったのは、相手方に対する気遣いも無論あったが、それ以上に恐らくはこの店が筒井にとって密談に最も適した場所であるのだ、と察したからである。
 上客相手として、そして上流の店の名誉として、『立ち聞き』をする様な無礼な女中や奉公人などは一切いないと言う事なのだろう。その信頼の証がこれら目の前に供されている贅なのだと思えば、楽しい無駄話よりも実用的な本題へとっとと話を切り替えて貰いたいものだ。
 やがて、酒をゆっくりと干した杯がことりと音を立てて置かれる。落ちた静寂は、離れに当たるこの部屋から中庭を隔てた、宴会場からの賑わいが僅かに聞こえてくるぐらいに静かだ。痛い程に。
 お預け、に焦れた狗を果たしてどの様な目で見ているのか。酒の余韻を味わう風情で居る所にじっと視線を注ぐ土方にやんわりとした笑みを向けて寄越すと、筒井は「さて」と切り出した。
 膳を挟んで思わず背筋を正す土方に猶も笑みの姿勢を崩さず悠然と、どこから切り出そうかと考える様にしている筒井の態度に、土方は拳を握らず堪える事に精一杯だった。情報の遣り取りであろうが政治的な話し合いであろうが、餌に振る尾を隠せないのは愚の骨頂だ。それは重々理解していたが、土方の忍耐はそろそろ弾け飛びそうであった。
 果たして、そこで楽しみを終えたのか、それとも他意なぞ無かったのか。筒井は声を潜める様な意味を示す仕草でか、人差し指を立てて言う。
 「坂田くんが容疑者と至った根拠をまず説明しておこうか。そもそもにして彼はある時突然真選組に招き入れられた存在だろう。元々の構成員が同郷の出であったり、或いは浪士組と言う同じ釜の飯を食べ過ごした間柄であった君たち真選組にとって、彼の存在は酷く異質なものである筈だ」
 切り出しはいきなり本題だった。今まで焦らされた無駄話や時間からの唐突な、それも核心を衝いたその言葉に、土方は身の裡を勝手に覗き見された様な感覚を憶えそっと顔を顰めた。
 羨むには足りぬ疎ましさ。近づき過ぎて見え辛くなった忌々しさ。そう言った澱の様な感情たちを裡に抱え続けて来た土方にとっては、誰かに客観的にそれを表される事は好ましい事では断じて無い。
 舌打ちは辛うじて堪えて、僅か目を眇めただけの応えを是と──それも同意に近い形の──取ったのだろう、筒井もまた応じる様に目を細めた。
 「かと言って、坂田副長は近藤局長殿が自ら連れて来たと言う明確な後ろ盾のある人間。君の命を狙うと言う確たる証拠や動機の見つからない現状、彼を糾弾する事は難しい話だ。況してや暗殺に暗殺で返すと言う訳にも行くまいよ」
 言ってこぼす溜息は少しばかり芝居がかっていて態とらしい。土方は己がどう言った手を打つべきかと思案する素振りで筒井の様子を盗み見ながら考える。
 釣りは得意な方だと自負している。故に、筒井の言う通り現状坂田を一方的なこちらの言い分だけで追い詰めるのは無謀極まりないとも理解している。近藤を含めて、坂田を副長として信頼し尊敬する人間は真選組の内部にも多いのだ。不味い餌で下手な手を打つ訳には行かない。
 「何か、明確な確証でも得られると言うのであれば話は変わって来ますが…、」
 土方の言いかけた言葉を仕草で遮って、筒井は再び声を潜める事を促す様に手を立てる。浮かぶ笑みに厭なものを嗅ぎ取った土方の嗅覚は果たして正しかった。
 「坂田副長は元攘夷浪士の死刑囚だった、と言う可能性がある」
 「………」
 高級な酒の香に混じった毒の気配に、然し土方は表情ひとつ変えはしなかった。坂田と言う男が真選組にある日突然現れ、居座って仕舞ったその時からそれは薄々予想していた事でもあったからだ。
 「攘夷戦争の終結後に、一橋公の派閥がこぞって残党浪士狩りに励んでいた時期があったろう。その頃の死刑囚名簿に不自然な改竄の痕跡がある事が発見されてね。監察(我々)が調査を進める内に坂田くんの名に行き当たったと言う訳だ」
 「………その流れで行くのであれば、坂田が真選組に籍を置く事になった、人事や局長の方に問題があると言う結論になりかねません」
 事実それが正しいとしても、と言葉を呑み込んで、土方は苦々しく重たい口を開いた。
 筒井の側には坂田を失脚させるに容易に過ぎる材料がある様にも見える。だが、それを行使せずに土方にわざわざ、坂田が暗殺事件の犯人であると『密談』で告げる理由が解らない。監察ならば、それらの理由で坂田を逮捕するも、真選組の不手際を貶める事も最早叶っていると言える。
 わざわざ土方にこの様な話を持ってきた以上、そこに生じるメリットが──或いは握った弱味を活かす何らかの理由がある筈である。
 「それに、同姓同名、或いは良く似た容姿の別人と言う可能性もあります。容疑者として上げるには少々弱いと言わざるを得ません。もう少し明確な、坂田が件の死刑囚であり、且つ真選組副長の暗殺を目論むに至る証拠が必要でしょう。
 ……それらを既にお持ちであれば何よりなのですが」
 これがもしも土方を通じて真選組に何らかの便宜を求める『取引』なのだとすれば、敢えてこれを単なる『情報提供』ではないと気付いている意味をも含めて、賢しく振る舞うべきだと土方は即断した。『取引』なのであればそれに応じるも吝かではないと言う気配は滲ませつつ、筒井の目的やその自信の理由を探った方が良い。
 そう──土方は己が釣りは得意な方だと自負しているのだから。
 「元攘夷浪士の死刑囚。この風聞だけでも坂田くんの立場は随分と危ういものになるとは思うが……、やはり流石の鬼の副長殿は慎重な様だ。それ以上の動かぬ確信をまで求めるとは」
 目を細め笑いかけられる言葉を揶揄とは取らなかった。土方は「お褒めに預かり」とお愛想の様に答えながら次の手を考える。
 筒井の目的は今ひとつ明瞭では無いが、一つ確かだと思える事が『坂田の失脚』であると、土方は一旦の結論をそこに置く事にした。坂田の失脚で筒井にどの様なメリットが生じるのか、それとも何か個人的に恨みでもあるのか。監察の権能を直接用いらず土方に話を通すなどと言う面倒な手順を踏む辺りはそちらの可能性の方が高いのかも知れない。
 監察の力を行使するには当然組織が動く事になる。そうなると話はおおごとになるし、それこそ土方の懸念する所である、真選組へのお咎めも引き起こす事になりかねない。
 (……て事は、坂田は目障りだが真選組の力は残したい、って所か…?それも、副長である俺に恩を着せる回り諄さを思えば結局碌なもんじゃなさそうだが)
 取引。癒着。余り良い言葉が浮かばないのは確かだが、ここで難色を示さず敢えて応じる素振りを見せるのが『釣り』だ。賢しく、然し肝心な所が愚鈍に見える様立ち回らねばなるまい。
 何より、近藤や松平の不在である『この時』を狙って土方の前に坂田への容疑と嫌疑とを突きつけて来ているのだ。筒井が『個人的』に真選組に何かを求めているならば、果たしてその目的とは一体何だと言うのか。
 「情報の出所とその信頼性。それも慎重にならざるを得ない所ですが、それ以上の懸念が──いえ、疑問が一つあります。
 坂田の存在が無くなる事は私のメリットにしかならないでしょう。貴公の取り分は『何』ですか?」
 ひたりと相手を見据えそう問いながらも、土方は内心そう真っ当な事の様に口にする己を恥じていた。それは無論目の前の幕臣に対する気遣いでは無いし、この場にすら居ない坂田の自由な生き様に対する含羞でさえも無い。
 単に、不意に己を『穢れた』と感じただけだ。煙草の煙と同じぐらいの軽さで嘘と方便とを吐き分ける己の生き方は、果たして近藤の望んでくれた『侍』に足るものだろうかと思っては、それは断じてあるまいと皮肉を以て否定する。
 然し如何に恥じようがそれを厭おうが、嘘の染み込んだ擬餌を投げて己の望む結果を釣り上げようとする己の有り様に変わりなどない。顔を顰めるその代わりに挑戦的に笑んでみせれば、それが望まれた正解に程近いものだったのか筒井がほんの僅か仄暗い影を纏って笑う。
 「君と…、君たちと少し仲良くなりたいだけだよ」
 それでは不満かい、と続けられるその答えに、矢張り真選組との癒着か何かの狙いがあるのか、と解答を運んだ土方は、取り敢えず是とも否とも答えない沈黙を通した。
 簡単には応じない、然し手次第では考えなくもない、と言う気配も顕わな土方の態度に筒井はそっと息を吐くと、時計を見遣る仕草をした。どうやら今宵の無駄な騙くらかし合いはここまでと言う事らしい。土方は我知らず胸中で嘆息した。
 「慎重なだけではなく、疑り深い、か。いや、その方が真選組の『鬼』らしい。また後日改めて話をしようか。君がこの話を信用してくれるかどうかはその時に聞かせて貰うとするよ」
 また連絡を入れさせて貰う、と言うと袴を捌いて立ち上がる筒井を、土方は平伏の礼を以て見送った。店の人間では無い上、一応体裁では招かれた側の人間である。表まで小姓宜しくついて回って車を見送る必要はあるまい。
 ただ、車を待っている所で鉢合わせするのも面倒だと思ったので、時間を少し空けて出る事にした。部屋にはまだ膳も酒も残ってはいたが、食欲も何も湧いたものではなく、手を付ける気になどなれない。
 土方にとって上手いとも拙いとも言い難い、ただ密談の秘匿さだけが保証された話し合いからは正直何を得たとも今のところは言い切れない。何しろ筒井が坂田に対し何か思う所がありそうだ、と言う事以上には何も開けていないと言っても良い内容だ。また後日、と言い去った筒井のその様子には笑みの残滓が貼り付いた侭で、その横顔からは機嫌を損ねたかそうでないのかは伺えなかった。
 だが、成功か失敗かそれを問う以前に、取引──否、『話し合い』は、今日はまだ顔見せ程度の前哨戦と言った所だ。互いに材料を投げ合って取るべきスタンスを見せ合っただけ。次にまた同じ様な『友人との会食』として招待された時には、土方は何らかの取るべき選択を用意しておかねばなるまい。
 (坂田を犠牲にして、組の益を得る……なんて言う単純な話じゃ無さそうだからな)
 思わず流れたひねた思考にこっそりと顔を顰める。
 何にしても漸く今日はお開きだ。頭を起こしてから土方は溜息以上の苛立ちを何とか隠して、袂の中で腕を組んで中庭へと視線を投げた。
 夜は大分更けて暗い。今己に出来る事も、やれる事も、ここまでの様だ。







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