深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 14 「……」 はぁ?と言う言葉は辛うじて喉の奥でつっかえて止まった。坂田は熱っぽい声で語られた言葉を吐き捨てたくなりつつも何とか咀嚼し、動画の中の男を見た。反芻する。 噛み砕いて言えば──、幕府に反する勢力を集めるのに力を貸せ、と言う事だ。 桂の語っていた、反社会的な若者に攘夷戦争の英雄譚を語る、元攘夷志士なのだろう男の風体に坂田は見覚えがない。顔は隠しているし声も変えているが、それでも確信を以て言える。これは知り合いの類では断じて無い種の人間だ。 時代の変化と共に、当初は散発的にテロリズム行為を行い反幕思想を唱え続けていた者らも、桂を筆頭に最近ではなりを潜めている。若者を中心とした民衆は思いの外にデモクラシーに傾倒し、将軍への忠誠や滅私奉公も大衆の意識からは緩やかに廃れ始めている。 何故かと言えば、征夷大将軍に対する事実上の君主であると言う認識や敬意こそあれど、『将軍』の名が実質形骸化していると言う事を、今や知らぬ者など居ないからだ。 開国以来、幕府は傀儡政権を維持する事で現状を保っている。それでも大多数の民から目立った不満が出ないのは、傀儡であれどその統治と政治とに問題が無いからである。より良い生活により良い収入、平和、福祉、安全。多くの人間にとっては一国のややこしい政よりも自分たちの生活の保障がされる事の方が重要だったのだ。 そんな中だからこそなのか、同じ主義主張を──それが反社会・反幕府と言う背信と犯罪行為であれど──持つ者らで結託するべきだと言う声は、確かに一部からは起こりつつある。それらの勢力が反幕府の主義主張として槍玉に挙げるのが、先の攘夷戦争である事は言うまでもない。 だが、それでも幕府の支配権の変わらぬ以上、そして幕府の裏に外部の権力が潜んでいる以上、民主化と言う言葉は決して叶う事は無い。故に、幕府や将軍への畏敬が薄まれど社会は決して変化しないのだから、幕府主導の現在が『より住み易い』社会であったとしてそれを軟弱と詰り反発するのだ。攘夷戦争の火種の未だ消えぬ世であるからこそ、幕府はそう言った叛乱分子になりかねないものを執拗に警戒し続けている。 実際、見えない所でも見える所でも、幕府に因る攘夷思想への弾圧は未だに続いている。真選組と言う武力組織の結成もその政策の一つである。 因って、男の熱心に、そして大真面目に語った目的は『本気』であると知れる。どれだけの規模の者たちかは解らないが、少なからず日頃は目立った発言も活動もせずに潜み、機を眈々と待ち続けているだけの執念があった。 坂田ばかりか土方との事をも調べ、今を機と見て動き出したのは間違い無い。 だが、同一思想の者で集った集団を、派閥と言う小さな規模から同盟、引いては建国と言う言葉にまで目標を押し進めた計画は、慎重な様で酷く杜撰。そんな絵空事めいた計画の核であり、希望でもあるのが、攘夷戦争末期の英雄として数えられた『白夜叉』の名。 「……」 坂田は沈黙の果てに返す言葉を探しあぐねていた。今更、過去の攘夷志士の一人が吠え声を上げた所で、果たしてそれに同調して幕府や外宇宙へ立ち向かおうと思う者がどれだけ居るのだろうか。判官贔屓のきらいの強いこの国では、攘夷思想はテロリズムと言う言葉に置き換えられてなお、反社会の象徴としても扱われると同時に、気骨ある者と賞賛の声さえ受けると言う相反するものでもある。 桂がそこいらのラーメン屋に日々出入りして放置されているのも、真選組と追いかけっこをして平然と逃げ延び続けているのも、その辺りに理由がある。 攘夷志士はテロリストであると同時に英雄でもある。その曖昧な立ち位置を未だ覆せないのが、民意と言う、集まれば大きくなる声を幕府が持て余している証拠だ。 それは同時に、幕府が本気になれば──民衆を弾圧してでも攘夷志士を制圧しようとすれば、あっと言う間に終わると言う事でもある。無論、あっと言う間、の中には、然して長い期間にならずとも攘夷戦争の再来と言う、看過するには余りに大きすぎる負債を含むのだが。 それらを天秤に掛けた結果が、真選組をはじめとした警察組織に因る治安維持と言う現状である。制圧でも弾圧でもない、治安の維持。法治国家ゆえの宿命だなと、土方が以前こぼしていたのを坂田は思い出す。 ともあれ──この犯人たちの思想と行動力とは、坂田の思う以上にはおおごとであった。ついでに荒唐無稽でもあった。 だが、「無謀だから止めろ」と坂田が説得する事は端から叶わず、「勝ち目がないからやりたくない」と言う選択肢も用意されてはいない。 土方の命を分銅として据えられた以上、坂田の天秤の傾きは決している。そして彼らも、坂田がその意に従うだろうと言う確信を抱いている。 (身内に疑われたり、旧いダチには疑われてなかったり、全く見ず知らずの連中には身勝手に信頼されたり。…なんでこう、侭ならんのかね) だからこその人の心と言うものなのだろうが。気鬱さを振り払うべく、坂田は深淵から出た様な溜息を吐き出した。坂田の返答を待つ動画の中の男の姿を見ながら言う。 「…それで?具体的に何すりゃ良いの」 《白夜叉として近藤にとどめを刺し、自ら真選組を棄て、幕府の狗と言う鎖を断ち切るのだ。その行動こそが全国に潜む同胞たちへの蜂起の先触れとなるだろう》 坂田の諾の答えを矢張り予想していたのか、男は芝居がかった仕草で拳を握り、台本でも読み上げる様にそう高らかに、謳う様に宣言した。その言葉に、坂田が何かを言うより先に動画の背後で激しい鎖の音と呻き声とが返る。 然し、近藤の死を示唆する言葉に対し、反射的に動かざるを得なかったのだろう狗の愚かな抗いを、男は蔑む様な表情で僅かだけ振り返ったのみ。 《白夜叉よ。我々は貴殿の事を同じ攘夷の徒として信じている。貴殿が幕府に与した事も何かの間違いであったのだとさえ思える程に。況してやあの様な狗の色香に誑かされての愚行などとは、我々自身にも、嘗て散った攘夷の同胞らにも顔向け出来ぬ恥であると知れ》 「……つまり、俺が端から真選組を裏切るつもりで内部に入り込んでたと、そう言う事にして下さるって訳か。お優しいこって」 皮肉を隠さぬ坂田の言い種に、動画の中で男の再び笑う気配。彼はカメラの前を再び離れると、カメラに向かって轡の下で呻き声を上げ続けている土方の方へと向かった。土方は己の目の前にやって来た男の方になど一瞥もくれず、ただじっとカメラの向こうの坂田を睨み続けている。 《喧しい狗だ》 電話の向こうから、心底に侮蔑と怒りとを孕んだ声。同時に男は、喚き続けている土方の顎を片手で鷲掴みにすると、横に捻る様にして側頭部を壁に打ち付けた。電話と動画の両方から届く不明瞭なノイズの中で、がくりと土方の頭部が項垂れる。肩が上下しているのが見えるので、気絶した訳では無さそうだが、血の細い筋が顎先からはたりと滴るのが、高精細とは言えない動画の中で妙にはっきりと見えた気がした。 気は済んだのか、カメラの前に再び戻ってくると、男は動画を見つめている坂田の裡の感情を察してでもいるかの様に、酷く鷹揚に言う。 《貴殿が我らの意に背かぬ限りは、そこな狗の命は保証しよう。ただ、我らはいつでも彼奴の首を刎ねられると言う事だけは忘れぬ様》 「それまでは指一本も触れねェで貰いてーんだけど?」 怒ると言うよりはせせら笑う様に出た坂田の声に何を思ったのか。男は大仰に肩を竦める仕草をしてから、忌々しげな態度を隠しもせずに口を開いた。 《……心得た。近藤を首尾良く仕留めたら人質を解放しよう。それまでは何もしない》 男の口振りは本気のそれでは無いのだろう。伺い見えて来るのは、攘夷志士の英雄であった坂田に対する失望と、土方に対する恨み。そして、それでも猶消えぬ、坂田へと希う期待と信頼。或いは単純に、──希望。 《電話はこの侭切るな。その忌々しい装束にでも仕舞っておけ。それと、言う迄も無いとは思うが、貴殿には監視が付いている。我らを出し抜いて行動しようなどとは思わぬ事だ。 …………情人の──否、この狗の身を大事に思うのであればな》 答えず、坂田は通話中の電話を上着のポケットに投げ入れ、近藤の入院している病院への道を思い出しながら玄関に向かって歩き出す。 最後にちらと見遣った動画の中では、血を滴らせ項垂れていた土方が身じろぎ、猶もカメラ越しに坂田を睨み据えて来ているのが見えた。 土方の思う坂田と言う男は──つまりは、そう言うものだ、と言う事なのだろう。 恐らくは望んだ筈の答えに、坂田は満足を示して微笑んだ。 この世界での征夷大将軍に対する市民感情って、余所の国ですが王室みたいなもんなのかなと。 一応政に携わっているとしても結局は老中が回してるんだろうし、それすら傀儡政権だとは作中で再三指摘されてたし、かと言って敬うべき存在である事には変わりなし。 ← : → |