深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 15



 何度見下ろしてもそれはただの荒縄だった。編み込まれた繊維は丈夫だが、切断するのには刃物一つあれば容易い。下手に結束バンドの様な素材だったらそう容易には断ち切れまい。だが、その点で運が良かったと言えるのかどうかは解らない。何しろ肝心な刃物は手元には無いのだ。
 腕は身体の前で戒められている。時間さえ掛ければ、後は手段の一切を選ばなければ、歯やそこらの石ころでも何とか出来るだろうが、生憎と土方をここに縛り置いた連中は仕切り一つ無い同じ空間に居る。あからさまに抵抗や脱出の手段を目論むのが碌な結果を生まないだろう事は火を見るより明らかである。
 見下ろしていた縄の結び目にほたりと紅い雫が滴る。先頃壁に打ち付けられた時に負った傷だ。多少脳震盪は起こしたが、怪我そのものは然して大きなものではない。少なくとも非常時に動ける程度には無事だ。
 「……」
 縄を切って、繋がった鎖を外して、この無体を働いた連中を叩きのめす。言葉にすれば容易いが、現状を見れば難しいと言わざるを得ない。手順を進める為の材料が土方の手元には余りに少ないのだ。
 口の中で不快な轡を奥歯で噛み締め嘆息する。この無様な為体を招いたのは誰あろう己であると言う自覚も恥もある。が、事は恥程度で終わるものではない。この失態は、してはいけない失態だった。
 坂田にだけは、この弱味を晒させてはいけなかった。
 土方は、少し離れた位置に置かれた侭になっているスマートフォンを見遣った。レンズがこちらに向いたそれは、三脚に据えられじっと土方の方を見つめている。土方の命を保証していると坂田に示している筈のそれは、今も動いて、この様を記録し続けているのだろう。
 カメラの向こうの坂田は、果たしてどの様な態度で、表情で、己のこの様子を見たのだろうか。思えば失笑が浮かぶ。──決まっている。土方の知る限りの坂田は、そう言う男だった。
 土方を襲撃し、ここまで連れて来た連中は、同じ空間内に居る者だけでも七人。名乗りを上げた訳では無いし手配書でも特に見覚えのある顔はいなかった──覆面をしている者も居るので全員を確認出来た訳ではない──がs、何れもそれなりの手練れである。近藤らを襲撃した若者たちとは全く異なった者らだ。
 攘夷戦争末期に戦に参加し、坂田の姿を見ていた者ら。恐らくは、仲間、同志、英雄として。あの銀色の背中に希望を見出していたのだろう。
 そして、そんな男が幕府の狗に成り下がった事を、裏切りと強く感じた。故に、その裏切りを許せぬと思ったのだろう。
 つまりはこれは、坂田銀時──白夜叉と言う名の英雄に対する復讐だ。或いは、復讐であり、希望なのか。
 ……想像はそこまで。後は坂田に対した通話の中から拾って土方の察した事だ。
 (要するに、坂田に対する俺の疑心が利用された訳だ)
 とは言え浮かんだ推論には確信がある。この誘拐劇も一日二日の計画では到底起こせない。土方が負傷し病院に通う様になった頃、態とその前に襲撃者の一人を差し出したのだ。所詮は切り捨てても何ら問題の無い、チンピラが一人。
 坂田に対する疑念を土方が──近藤の襲撃と謹慎と言う鬱屈の溜まる状況下で──膨らませる事を狙い、嘘の証言を持たせられたその男は、何も知らぬ侭、或いは予定通りに死んだ。土方にとっても主犯らにとっても予定通りに事は運んだと言う訳だ。
 幾ら同じチンピラ仲間を逮捕しようが、彼と同じ証言が出て来る筈もない。坂田への疑念を示唆したそれは、土方ただ一人へと向けられたただの嘘だったのだから。
 土方がその事に口を噤むのも恐らくは計算通り。後は勝手に坂田への猜疑心を深めた挙げ句に、単独行動でもした隙を狙うだけ。余りに簡単過ぎる話だ。この人質の命は正しく、坂田に対する枷と言うだけの価値しか持たされてはいない。奴らの狙いは真選組副長の命ではない。もう一人の真選組副長の、社会的な命なのだ。
 そこまで理解出来ていても、土方の裡に過ぎるのは、してやられた、と言う悔しさばかりではない。自己嫌悪は既にし飽きているし、卑劣で単純な仕掛けに対する罵声でも無い。
 (連中は、坂田を味方に引き入れたい。だから坂田に自ら真選組を裏切らせようとしている)
 想像に背筋が冷えた。握った拳の下で鎖が床に擦れ鈍い金属音を響かせる。
 坂田は言った。土方に、恐らくは正しく伝わると確信を込めて。たったの一言を。
 "お前の考えは正しい"
 ──つまり、それは。
 (……………俺と、──を天秤に掛けたとして、坂田は、)
 そこが確信の行き着く先。どれだけ疑念があれど、おかしなもので、たったひとつの信頼は在るのだ。こればかりは揺らがないだろう、確信は。
 だからこそ土方はそれを畏れた。己の失態を罵倒し、呪いながら恨みながら、その恐ろしい結末を覆すべく思考を巡らせる。それが役に立たない脱出と抵抗の算段であれど。
 「おい、こいつはどうする?もう白夜叉は見張りの監視下だろう?」
 不意に目の前に差した陰りに、思考を中断した土方が顔を起こせば、目前には犯人たちの一人が立っていた。余り明るいとは言えない蛍光灯の下であっても、その表情に宿るのが侮蔑や嫌悪だと言うのははっきりと見て取れる。
 「人質の必要はもう無ェだろ。どの道事を起こしちまえば白夜叉は真選組になんぞ戻れやしねェんだ。なら、時間のある内にとっととバラしちまった方が良い」
 おまけにそんな物騒な言葉だ。何となく予想はしていたが、土方は思わず顔を顰める。否、土方でなくとも、目の前で己を殺す算段など話されたら良い気はしないだろう。
 「まあ待て。近藤を仕留める迄は生かしておかねばなるまい。白夜叉が最後の確認をしないとも言い切れんからな」
 「ちっ。つまらねェな。俺はこのクソ犬には仲間を殺された恨みがあんだよ。殺しても、殺しても飽き足りねェ程にな」
 目前に立った男は床に唾を吐き捨て、苛々とした眼差しで土方の事を見下ろしてそう言った。正直聞き慣れた台詞だったが特に茶々は入れず、土方はただ黙って己への殺意を聞き流す。
 「、」
 と、男がいきなり足を振り上げ土方の身体を蹴った。腹部に鈍い衝撃。かは、と詰まった息が喉から吐き出される侭に咳き込み、土方は身体をくの字に折り曲げ横倒しに転がった。そこに間髪入れず飛んで来る二発目。今度は苦悶を上げれば、更にもう一発。
 「げほっ、ぐ、ッ、」
 咳き込みながら、防御姿勢を取る様に小さく丸まる土方の弱々しい姿に、男は幾分、目の前に憎い相手が居ながら殺す事が出来ないと言う不満に対する溜飲を下げたらしい。「へっ」とせせら笑うと蹴るのを止めた。
 「おい、そこまでにしておけ。白夜叉もそろそろ病院に到着する頃合いだ」
 「ああ、わぁってるよ。っは、あのクソ生意気な副長殿が良い様だ。楽に死ねると思うなよ?爪一枚一枚剥いで、指一本一本切り落として、手や足は切断しながら犯し殺してやるからな」
 身体を丸めて咳き込む土方に向けてそう陰惨に笑いながら言うと、男は制止した仲間の居る方へと戻って行った。
 その足音が遠ざかって行くのを聞きながら、土方は苦しげに咳き込む演技の中で考える。
 (猶予は、坂田が病院に──近藤さんの病室に辿り着くまでと思って良い。それまでに俺がこの、人質と言う状況を脱してなければ、あの野郎は、)
 くそ、と咳き込む合間に呻き声が漏れた。浮かんだ表情は演技よりも猶苦しげに歪んでいる。
 男の蹴りなど端からまともに貰ってはいない。相手の動きを見ていれば、出来るだけ衝撃を殺し、且つ痛がっている様に見せてやられる事ぐらいは容易に出来る。
 こんな事で、こんな下らない事で、これ以上の瑕疵を負う訳にはいかない。
 カメラ代わりのスマートフォンの向こう側には、会議室などで使われる安っぽい折り畳み机が一つ置かれており、その周りにパイプ椅子を並べて男らはめいめいの姿勢で座していた。
 全員手練れである事は間違い無いし、得物をそれぞれ所持もしている。今は戒められて転がっている土方に対して油断もしているが、幾らその隙を衝いた所でこの場に居る七人全員を素手で一度に何とか出来る気はしない。何か、克つ為には何か最低でも一つは後押しが必要になる。それをしなければならないのは、幾つかの望みを残したとは言えど、最終的には土方自身しかいない。
 "お前の考えは正しい"
 坂田の伝えて寄越した言葉は、最悪の想像の肯定だ。
 己だったらどうだろうかと考える。否、考えるまでもない。土方は坂田と近藤とを天秤に掛けられたら躊躇わず近藤を選ぶ。
 坂田は近藤を恩人と感じているが、天秤に乗せられるのが土方と言う錘であったら、坂田は間違いなく、土方を護ろうと選ぶ。
 選んでしまう。
 (駄目だ、)
 それはあってはならない事だと、咳き込み軋んだ奥歯の下で土方は吼えた。
 坂田は、打算を言い訳に土方に手を伸べたあの男は、"お前の考えは正しい"そう告げた通りに、きっと土方の事を選んで仕舞う。土方が己の枷となったのだと解っていながら、選んで仕舞うのだ。だから、そうさせる訳には決していかない。
 (坂田はそうすると、俺が解ると、だからあんな言葉を吐き捨てやがったんだ)
 そればかりか、信じるか信じないかでさえ、お前が決めろと言い残して行った。それが多分正しいと、確信している癖に。
 仮に、坂田が土方を枷に近藤を手に掛けたとして。
 それを許すも、
 許さないも。
 お前が決めれば良いと、身勝手に言って寄越したのだ。
 (クソが!)
 額を床に押しつけて土方は出ない言葉であらん限りの罵声を上げた。男たちは土方が痛みに呻いているとでも思ったのか、哄笑を上げる。
 鎖を振れば直ぐに伸びきって腕が引かれ落ちる。こんな下らない謀で、こんな下らない誰かの思惑で、こんな為体を晒す己の所為で、坂田が、近藤が、失われるなど有り得てはいけない。
 正しいのだと。こんな時までそんな優しく憎たらしい言葉を言い残す坂田の事が、土方は心底に憎いと思えた。
 信じられ過ぎていると言う事が、こんなにも重たい鎖となるのだと、理解して仕舞った。
 だからこれは己の責。坂田を疑い、畏れて、問わずに、護ろうと思い上がった、真選組副長としては余りに愚かな。
 「──」
 感情は怒りとも嘆きともつかない。今信じるべきは何かと言う理解はあってもその感情の収まりがつかず、鎖を引っ張って縄を緩めようと藻掻き始めた土方の姿に、一度は席へと戻った男が再び立ち上がってこちらへと戻って来る。
 「お仕置きが足りなかったのか?ああ?」
 男の声にはあからさまな嗜虐心と苛立ち。今度は仲間も特に止めない。じゃらじゃらと鎖を鳴らす事でそれに応えると、土方は眼前に再び立った男を睨み上げた。
 「白夜叉が病院に着いた様だ。見張りか、どうやら一番隊の人斬り沖田が居たらしい」
 仲間と連絡を取り合っているらしい、携帯電話を手にした男の一人がそんな事を報告するのに、目の前の男が口端を吊り上げてみせる。どうやらこれで楽しい拷問を始められるとでも思ったのか。
 然し土方は揺らがない。恐怖も諦めも無い。ただ在るのは、坂田へと向けた強烈な感情がひとつきり。カメラの向こうにはもういないだろう、馬鹿な男の信に応えねばならぬと言う、想いが。
 その瞬間、薄暗い室内唯一の光源であった蛍光灯が消えた。
 
 *
 
 よぉ、と出来るだけ友好的な態度で片手を挙げてみせたが、相手の少年がそれに特別何かを返す事はなかった。
 いつかも通った、病院の殺風景な風景だ。向かう道の先にはVIP用の病室があるそこは、昼間の陽を穏やかに差し込ませている長い廊下。
 こんな時間だと言うのに、そこを通る者は誰も居ない。恐らくは坂田の接近を察知し、人払いが行われたのだろう。全く手際の良い事である。
 と言う事は少なからず斬った張ったの一つぐらいは想定しているのだろう。病院と言う場所柄、余程致命の一撃でも貰わない限りは助かる目算はありそうだ。
 そんな、内心での命や怪我の物騒な想像など微塵も見せる事なく、坂田は後頭部を掻きながら言う。
 「沖田くん、こんな昼早くから珍しくねェ?」
 「生憎と、ここ最近の俺は結構勤勉なんで」
 坂田の懐には電話がある。犯人たちがそれを聞いている事は承知だったので、敢えて目の前に立ちはだかる障害の名前を伝えてやる事にした。果たして真選組一番隊隊長の悪名は、浪士たちの間にどの様な効果を以て伝わるのだろうか。この旧い元攘夷志士の男の、相手にとって不足無しとでも思われるのか。
 果たして障害である少年は坂田の軽口と軽い態度とに何を思ったのか、腰の得物に軽く手を触れさせた侭、ただ剣呑に、然し静かに佇んでいるばかりだ。
 「……で、どちらへ行かれるんですかィ、副長」
 「んー…、ゴリラの見舞い?」
 「へェ。それこそ珍しい」
 へらりと笑ってみせる坂田とは対照的にも、沖田はその顔に笑み一つ浮かべようとはしない。その様子から、冗談ひとつ、軽口ひとつにも付き合うつもりは無さそうだと、坂田は判じる。
 沖田には元より余り好かれてはいないと言う自覚はある。相性は悪くない筈だし、露骨に嫌われる様な事も無い筈なのだが。寧ろ日頃はそれなりに、上辺だけとは言え仲も良い。
 この少年は坂田の事を嫌ってこそいないが、副長としては許容する気が無いのだと、そう朧気に理解してからはもう好きにさせる事にしている。
 近藤が、土方が、坂田に慣れて行く事が恐らく気に喰わないからこそ、沖田の引いた線を坂田はいつまで経っても越えさせては貰えないのだろう。そして沖田は、諦めた坂田の代わりにその中途に佇む土方の事を必要以上に攻撃するのだ。
 まあ、難しい年頃だから、と言う諦念の一言でそれらを片付けた坂田は、ともすれば容易く殺意に至るだろう沖田の鋭い眼差しを、佇まいを、やんわりと躱す事にした。
 恐らくは、こんな時間に、こんなタイミングに、彼がこの場に居合わせていると言う事は、悪い事では無い筈だと言う手応えを感じながら。
 「それ以上進むんなら容赦しませんぜィ」
 坂田の踏み出しかけた靴がぴたりと静止する。まるで爪先が冷たい何かの壁にでも触れた様な感覚だ。その先、沖田が纏うのは殺意には至らぬがそれに近い気配。
 鞘走りの音を態とらしく立てながら、沖田の刀がゆっくりと抜かれる。それとほぼ同時に、同じ様に抜刀した真選組隊士らが坂田の周囲を取り囲んだ。病院には到底相応しくはない、黒い服と銀色の牙の群れはいっそ壮観ですらあった。
 真選組の副長に対し向けられる、弾劾の刃たち。知った顔、憶えのある顔たちに油断なく見据えられながら、坂田は未だ副長を辞めぬ眼差しで彼らの姿を見渡して言う。
 「……邪魔ァしねーで欲しいんだがね」
 懐の電話に向けてそうこぼすと、坂田は己に全方位から向けられる刃の気配に相対する様に、得物の柄へと手を掛けた。
 局中法度の幾つだったか。仲間同士で刃を向け合う事は粛正の理由無くしては禁じられている。
 故に、己へと向けられる刃たちに坂田が明確に応じる意志を見せたら、その時は沖田には理由と大義名分が出来る。法度違反を取り締まり、粛正ないしそれに準じた処断と言う権利が生じる。
 その溝は、沖田が坂田副長と言う存在を気に食わないからと抱く、個人的な感情を越えたものとなる。明確な、敵と言う定義で分かたれた存在となる、決定的なものだ。
 得物に触れた侭、坂田はそっと忍び笑う。この答えは、仮令幾度問われたとして決して覆る事の無い決断だ。
 それで土方が己を恨んでも。
 それで土方に裏切りと罵られても。
 それで土方が嘆いて苦しむ事になっても。
 それでも選ぶ。護ると己の決めた、此の世界を。
 その為ならば魂以外のもの全てを呉れてやっても構わない。それを、護る為ならば。護る事が出来るのならば。
 
 それが戦線の布告を意味する事など既に承知。
 己を取り囲む刃たちに向けて、坂田は殊更に悠然と、自らの得物を抜いた。






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