ねがいよかなえ / 3 男は今日も死に体だった。 血溜まりを作って這いずって、最早何処へも届く事のない手を、今日もやはり、伸ばし続けていた。 彼を前へと進ませる執念は尽きる事が無い。未練。或いは無念か。 しにたくない、のではなく、しぬわけにはいかない。そんな感情だけが彼を生かし前へ前へと虚しい前進を続けさせている。 彼は自らの死をきっと受け入れる事が出来なかったに違いない。絶対的な運命の足音から逃れる為であれば、何でも出来たに違いない。 戻る為に。帰る為に。自分が死のうが世界に絶望しか見えなかろうが、その強い思いひとつだけで生き延びようとして──、 そうして男は今日もまた、無念の侭に死んで行く。届く事のない手を必死で伸ばして、無常の侭に死んで行く。 見慣れたその有り様がそれでも堪らなく苦しくて、胸を引き絞られる様な痛みに堪えられなくて、十四郎は絶叫した。 * 「──、」 ひう、と喉の鳴る音と共に目を見開けば、直ぐ目の前に銀時の顔があった。「十四郎」呼び掛ける声に籠もる狼狽の感情を拾い集めて、十四郎は夢の残滓の突き刺さる苦悶に堪えながらかぶりを振った。大丈夫だと必死で伝えた。 銀時は困った様に眉尻を少し下げると、汗ばんだ十四郎の頬を手の甲でそっと撫でて来る。安心しても良いのだと伝える様に、何度も。 大きく乱れていた呼吸が少し落ち着いて来た所で、漸く十四郎は事態を理解する作業に移る。 夢だ。いつもの、あの夢。眠っていて、夢を見て、そして多分酷く魘されでもしたのだろう。寝床に仰向けになった十四郎に覆い被さる様にして、未だ心配を隠しきれぬ様な銀時の顔がじっと見下ろして来ている。 「……起こしたか?」 「うん?まあ…、うん。そうだな」 少し考える様な素振りを見せたものの結局は正直にそう言う銀時に、十四郎は申し訳の無さと同時に感謝を憶えずにいられない。嘘や気休めでは十四郎に不安感や不審を抱かせるだけだと解ってくれているのだと思えたからだ。 「悪ィ…」 「良いって」 目を伏せる十四郎の前髪を優しい仕草を伴った手櫛で梳くと、剥き出しになった額に唇を落として、銀時はまるで内緒話でもする様に近づけた顔の狭間で密やかに問いて来る。 「具合は?」 あの夢を見た後の十四郎はいつも余り調子が良くない。ここ最近は特にだ。銀時の問いに十四郎は、余り良くはないといつも通りに答えるつもりで、小さく息を吐くと目を閉じた。すかさずそこに落ちて来る口接けを顎を少し擡げて受け入れながら喉を鳴らす。 「ん、」 親鳥が雛に餌でも与える時の様に、重なって交わる唇から、銀時の妖力が十四郎に分け与えられて行くのが解る。それは乾ききった喉に澄んだ甘露でも注ぎ込まれている様な感覚だ。そんな命そのものを潤すかの様な強烈な奔流を十四郎は必死で呑み込んで行く。 生々しい交合の狭間に生じた熱に逆らわず、十四郎は銀時の背に手を伸ばした。触れ合う身体の至る所から流れ込む妖力に、意識は強い酒でも呑んだ時の様にくらりと酩酊し不安定に揺さぶられていく。 「口だけにしとくか?」 僅かに生じた空隙に囁いて寄越す銀時に、十四郎はその後頭部を引き寄せて続きを強請る事で応えた。ふ、と至近で銀時が忍び笑う気配にぞくりと背筋が粟立つ。 妖力そのものを他者に分け与えるのは然程に難しくはない。指先一つでも触れ合えれば、分け与える側にその気さえあれば力は実に容易く、触れた膚を通じて流れ込むのだ。 木々であっても動物であってもそれは同様だと言う。例えば樹木の妖はそうやって森を自らの力で護るし、動物の妖は生き物をそうやって自らの眷属にする。更には妖力だけではなく血肉を分け与えれば、魂の親和性が高くなり、よりその効力は高くなる。 十四郎の脆弱な妖力も、こうして銀時と触れあう事で補われている。より全身で、より心で結びつく事でその効率が増すと言う目的もあってか──或いは単純に人の姿をした存在としてそう言う交わりを求めて仕舞うものなのか──、時に性行為の形で十四郎は銀時に多くの妖力を注ぎ込まれていた。 然しそれでも十四郎の妖力や生命力は日々減り続けて行く。銀時はそんな十四郎を護る為にも、やさしく十四郎の脆弱な身体を抱く。 強すぎる熱と力に酩酊しながら、銀時の呉れる妖力やそれ以上の情愛の様なものを求める様に、今にも脱力しそうな手指で必死になって十四郎は銀時の背に縋り付いた。 引き寄せられた銀時は十四郎のその感傷に似た感情に応える様に、口接けを深くしながらその身をやわやわと探り、理性だとか眠気だとか罪悪感や申し訳無さと言った、情愛以外のもの全てを取り払って仕舞う様促して来る。 「銀時」 不安で不安定で不確実な己に対する拠り所はその名の示すものにしか無い。それだと言うのに、幾らしがみつけど縋りつけど、十四郎の身には不可解なものが纏わりついて離れない。繰り返し見る夢の向こう側から、名状し難い悔いや心残りの様な感情を杭で穿ってそこに留めようとする。 きっと何かがあるのだ。あの光景の中に、十四郎自身でもよく解っていない様な何かが。だが、その『何か』が酷く苦しい。 縋り付いて見上げた銀時の顔の中に、ただの妖力を分け与えるだけの行為では有り得ぬ様な、情に満ちた表情を見出して、十四郎は泣きたくなる程に安堵する。ここしか無くて、これしか無くて、それで良いと思う己の感情を、ただの思い違えでは無いのだと知る事が出来るから。 「ぎん──、ッ」 強い妖力と単純な肉体的な快楽とを、酩酊感の侭に全身で酔いしれて受け入れながら、十四郎は己を組み敷き獣の様に腰を振る妖を両の足で引き寄せて更なる口接けを強請った。 分に合わぬ筈の身で、精一杯に銀時の呉れる愛情に答えようと必死だった。 幾ら妖力を分け与えられても、穴の空いた瓶の様に流れて消えて仕舞う奇妙。まるでその身こそが妖を忌避するかの様に弱って行く、そのちぐはぐな混乱ともどかしさを、銀時からの想いが、銀時への想いが、全部一度に塗り替えてくれれば良いのに。 応える様に、噛み付く様な勢いで落ちて来た銀時の唇を吸えば、舌先を慰撫する様に舐められる。呼吸の合間に途切れ途切れに名を呼べば、銀時は十四郎の背を抱え布団から抱き上げた。 「っ、あぁ、あ…!」 体内の粘膜を容赦なく擦り上げて潜り込んで来ていた銀時の性器が更にその交合を増す。突き刺さったと言っても良い衝撃に十四郎は目を白黒させながら背を仰け反らせて果てた。 その直後に、腹を満たす熱の奔流を感じて十四郎は歓喜とも怖気ともつかぬその感覚に身震いする。脆弱な身が妖へと引き上げられる、変容の瞬間はいつだって畏れにも似た高揚感を伴う。 銀時の腕が翼の付け根へと宥める様に触れて、子をあやす様に背と後頭部とを撫でてくれるのに逆らわず、十四郎は酩酊を伴う様な快楽の余韻に目を閉じた。そうして疲労感に崩れそうになる意識を引き留め銀時の背を抱き締め返して暫しの安寧に浸る。 「なぁ、」 やがて銀時の呼ぶ声に、身を預けた侭の姿勢で十四郎は薄らと目蓋を開いた。黙って続きを待っていると、とん、と優しく背を叩かれる。 「夢ってのを綺麗さっぱり忘れちまう気はねぇか?」 深い苦悩のこもった溜息と共に放たれたそんな問いに、十四郎は銀時の肩口に額を押し当て俯いていた目を瞠った。息は呑まなかったが、眉間に皺が寄ったのは自分で解った。 不快ではなく、恐らくそれは予感し得ていた畏れ。 「お前はあの夢に引き摺られてる。だからそれがお前を妖から遠ざけてるんだと思う。で、俺ならその夢ってのを多分消す事が出来る。だから──、」 十四郎の返事を待たず──或いは返事が無いと知ってか──そう続けると、銀時は努めて作ったのだろう、緊張感の無い声で苦笑混じりに言う。 「まあ、今の侭でも時間は要るかも知れねぇけど、妖力が定着すれば良いだけだからな、無理に忘れろって言う訳じゃねェから」 「………」 今度こそ呑みそうになった呼吸を、泣き声になりそうだった音ごと喉の奥底へと呑み下して誤魔化し、十四郎は目蓋を閉じて眠ったふりをこの侭通す事にした。 答えは既に出ている筈だと言うのに、それ以外の何かが十四郎の裡には確かに在って、そしてそれを取り除いて仕舞う事が正しいのかが解らなかった。 だから、選択の自由を与えてくれた銀時に、今は甘えていたかった。 多分、あの夢の男の未練に、悔いに、自分がきっと何か関わっている。それは明白だ。 棄てて仕舞えばきっと楽にはなれる。だが、『それ』を失うなと何処かで抗う心が残っていて、それを抱えた侭では十四郎は妖にも鴉にもなれぬ不完全な状態の侭なのだろう。 せめて夢の中の男の事が何か少しでも解るまでは、多分これは抜いてはならない杭なのだろうと──申し訳の無さと共に抱えて、十四郎は固く固く目を瞑った。 。 ← : → |