ねがいよかなえ / 4 男は死に体だった。 だが、その身のあちこちに致命になる様な傷を負って猶、男は手にした武骨な刃を振るって戦う事を、抗う事を決して已めようとはしなかった。 彼を取り囲んでいた人間の一人がやがて地に伏す。未だ死にきれぬのか、絶命までの短くはない時間を苦痛にのたうつ者に、然しその場に居る誰もが一瞥すら、一片の慈悲すら向けない。 何故ならばその瞬間この場所に在ったのは、ただの命の奪い合いだったからだ。倒れた者はその勝負に負けた。だからそれは、苦しみの程度に差こそあれど、その場に居る誰もが何れは辿るやも知れない結果でしか無いからだ。『こう』なりたくなければ生きるしかない。目の前の敵を代わりに殺して、隣の仲間を見殺しにして、生き延びるしか無い。 死にたくない。己だけは、死にたくない。酷く単純なその感情の前では、先に目の前に斃れる者は誰しも等しく骸だ。寸前であれど、結果的にはそうなるのだから、最早関心を向ける事ですら無意味だった。 都の外れだ。何年か前に戦場となり焼け野原になったその地は、人間の目から見ても忌むべき土地であった。多くの血と灰とに穢された荒涼とした大地には、植物さえ疎らにしか顔を覗かせていない。誰もが立ち入る事を忌避し、生者が本能的に畏れる。そんな地だった。 一方でその地は妖の類にとっては、程良い心地よさのある貴重な場所と言えた。 人間の立ち入りが無いだけで、土地は清にも濁にも流れず凝って行く力の吹き溜まりとなる。そこから神の位や妖が生まれ出る事も珍しくはない。然し神代の時代を遙か昔に過ぎ、人間の増えた世界ではこの様に力を保てる場は滅多に生じなくなった。人界の直ぐ真横に在って、澱みを溜め込む穢れの地など易々作ろうとした所で出来るものではない。 因って、力衰えた妖もこの吹き溜まりに留まれば数日足らずで快復が見込める程の力に満ちたこの地は、人間にとっては忌み地であり、妖にとっては実に良い地であった。 銀時がその日山を下りてそこを訪れたのも、ちょっとした保養の気分からであった。だが温泉に浸かる様な軽い気持ちで足を運んだは良いが、何やら人間の気配がある。放っておいても少々不快なだけで済むのだが、暇も手伝って気になって見に行ってみれば、ここではまず見かける事の無い人間の姿が、それも複数居たと言う事にまず驚いた。 そしてそれが殺し合いをしている事に、驚くより先に呆れた。 どうやら都から追われて来たらしい一人の男を囲む、四人の男たちが狩人の役だったらしい。不幸にも獲物と定められたのは未だ年若い男だったが、狩人たちを前に、彼らにとっては想像以上の激しい抵抗を続けていた。 銀時はその様子を俯瞰出来る樹上に座って、半ば欠伸混じりにその様を──殺し合いを観戦する事にした。特段興味があった訳では無く、ただ見ているのも彼らが去るのを待っているのにも退屈は避けられぬと判断したからだ。 どの道銀時は上位の妖だ。ただの人間ではその存在を見る事すら出来まい。仮に感覚の少しばかり『聡い』者が居たとして、精々が狐に見える程度だろう。銀時の妖力の顕現でもある九つの尾まで見通せる者は、妖以外にそう多くは無い。 そうして銀時の見下ろす先で、一人の男が斃れ、もう一人が続けて倒れた。どうやら追われる側の獲物の抵抗は相当のものであったらしい。とは言え彼の身体は既に傷だらけだったし、たとえ生きてこの場を逃れたとして、遠からず失血や傷口からの感染症で死に至る事は明白であった。 それでも何故あの男は抗い続けるのだろうか。思って銀時は頬杖をついて男の姿をじっと見つめた。己の姿形と大して変わらないだろう年頃の人間。長めの髪を頭頂付近で一つに結って、手にした余り出来の良く無さそうな刀一本を頼りに牙を剥いて吼え声を上げている。 死か、運命か、これから起こり得るあらゆる理不尽や無念に対してか、彼は凄絶な迄にそれに抗い立つつもりの様だった。 その様はまるで野生の獣か何かの様に見えた。絶望の中に在ってなお、生存本能と気高い志を決して失わずに居る、美しい獣だ。絶望と言う思考停止に囚われず歩みを已めぬ、そんな生き物。 見る内、我知らず銀時はその姿に見入っていく。遠い昔、人の姿では無かった頃の記憶が無意識に促す、その感覚は言うなれば飢餓。今にも涎を垂らしそうに切望するのは本能的な食欲。 あの人間の魂は旨そうだ。 ごくりと喉を鳴らして、銀時は今にもその人間たちの中へと飛びかかりたくなる気持ちを必死で抑えて、『旨そうな』人間を熱心に見つめ続けた。 妖であれば人間や動物の魂を食す事は特段珍しい現象では無いのだが、普通は通常の食物で食欲は生存するに困らない程度には満たせるので、銀時は魂そのものを食らった事は今までに殆ど無かった。 魂と言うものを食物に譬えるのは難しいが、強すぎる酒や薬の様なものと言うのが、食物や糧と言うよりは幾分か近い表現だろうか。 魂を食らうと当然ながらその魂の主は死ぬ。それは万一の転生の可能性すら奪われる事でもあるので、死ぬと言うよりは消滅すると言った方が正しい。 だが、魂を食らう事で得られるものは大きく、妖力を増したり寿命を延ばしたりと言った効果が得られると言う。その行為に溺れる妖は邪妖となり、目に余る故に人間や神性の存在に滅される運命を辿る事が殆どだ。 故に魂を喰う事は妖の中でも比較的に慎重に扱われるべき事象と言えた。少なくとも平穏に人間の世界に隣り合わせて暮らす妖であればそう考えるだろう。必須の食物ではなく、嗜好品の様なものなのだから、必要に迫られぬ限りは手を出さぬが懸命。それが多くの妖同様に銀時の認識だった。 だから銀時はその人間の魂を『旨そう』だと考えた事に躊躇いを憶えるべきだったのだ。本来であればそうだった。だが、どうした訳か目の前のそれは余りに旨そうで、理性や常識的な思考を容易く上塗りして仕舞ったのだ。食欲と言う、原始的に逆らえぬ感覚が銀時の背を押し鼓動を跳ねさせ、今まで殆どした事など無い筈の、魂喰らいに対する躊躇いなど微塵も生じなかった。 あの人間の魂を喰らいたい。 その一念に舌なめずりを幾度も繰り返し、銀時は遠からず訪れるだろう彼の死を待った。 * その感覚はとうに忘れて久しい。 伏して眠る十四郎の頬を手の甲でそっと撫でて、銀時は小さく嘆息した。あの食欲も飢餓感もすっかりと収まってからは、十四郎に感じるのは寧ろ情愛や庇護欲と言ったものに近いものへと変化して仕舞っていた。 それは自らの妖力を分け与えた事で生じた、自らの身の一部でもある眷属を見る様な感覚なのか。それとももっと別のものなのか。 判然ともしないが、何れにせよはっきりとしているのは、銀時が十四郎に執着に近い情を憶えている事だ。食欲として目に映っていたその感覚を何処かに残した侭、慈しみ育てる事を憶えた事が原因なのだろうかとも思うが、我が事ながら既に納得が先に来た現状に対しては最早、疑問を抱く事など無意味だと思っている節もある。 ともあれ、十四郎の身から妖力が少しづつ削がれて行っている事は事実で、それが己にとって最上位に当たる問題である事さえ解っていればそれで良かった。つまり銀時は今、かつて無い程に危機感を憶えているのである。 十四郎を妖から遠ざけているのは間違いなく、彼の過去の記憶だ。 (悔いが残ってるから、それに引っ張られてる。死んでも猶人間てやつは難儀なもんだ) ここ最近の、妖力を衰えさせて仕舞った十四郎は滅多な事では目覚めない。銀時はそんな彼の、深い眠りに届けば良いのにと願いながら、か細い呼吸を繰り返す唇に軽く口接けて身を離した。 人間であった頃の悔いが、記憶は無くとも魂に刻まれたその想いが、苦しさを齎すその杭を抜こうと無意味に抵抗しているのだ。十四郎からその無意識の願いが消えて仕舞わない限りは、彼の身が妖力を自覚せずに受け入れず消して行く事は止められない。 「お前は、妖で居るより人間で居る事を取りてェのかな。本心では」 己の口からぽろりと吐き出された、力が無い癖に淀んだその呟きに自分で顔を顰めると、銀時は十四郎の身体に布団を掛け直してやってからそっと立ち上がった。これ以上この無防備な寝顔を見ていると、何か酷く醜い事を考えそうな気がしたのだ。 小さなあばら屋から出ると、そこには年中穏やかな気候に包まれた偽りの農村の風景が広がっている。川や井戸水は隔世から無限に涌いて出ている様にも見えるが、実際は現実世界から拝借して使っている。畑の作物は通常のそれと変わらないから、手入れを止めて仕舞えば野放図になるか枯れて仕舞うかの何れかの道を辿る事になるだろう。 銀時は自ら作ったこの箱庭を愛していたし、居心地の良い住処だと感じていた。風景自体は最早良く憶えていない遠い昔の、ただの畜生だった頃の記憶から出来ている。その頃は決して良い暮らしも楽な暮らしもしていなかった筈だと言うのに、それでもこんな風景を憶えているぐらいには、きっと己は人の営みと言うものに無意識に憧れを抱いていたのだろうと思う。 小さくてささやかな妖の世界で、囲った鳥と過ごす生活。 この箱庭世界に生じたその役割を、銀時は護って暮らして行きたいと思っていた。己が妖力を喪失したり余程に弱って仕舞わない限りはこの世界は保たれ存続して行く。十四郎が居なくなったとしてもそれは恐らく変わらない。 ただ、それを厭だと感じる様になったのは確かだ。 大妖怪だなんだと成り上がった所で、結局はひとつの小さな生き物として、誰かや何かと共に居たいと言う願いだけは変わらぬ侭なのだと、達観にも似た気持ちでそんな事を考えながら、銀時は袖を捲ると畑へと水桶を抱えて歩き出した。 結局は。そう、結局は人間の真似事。 そこに僅かばかり、己の欲や願いが加わっただけの事。 永き時を生きる妖だからこそ、その様は不似合いに弱々しくてささやかで滑稽に感じられるものなのかも知れない。 「幾つになっても、人間の恰好になれても、畜生の浅知恵は変わらねェってか」 喉奥で忍び笑った所で、銀時は一度背後の家を振り返った。基本的に面倒臭がりの性分であった己が、どうしてこんな『人間の様な』ものに焦がれ真似る事を憶えて仕舞ったのか。 止めるには既に時は経ち過ぎたし、庇護すべき存在も手に入れて仕舞った。止めるのは簡単だが、酷く後悔するだろう想像はとても容易では無い。畑に手を入れなければ朽ちるのと同じく。己の執着が十四郎をきっと生かし続けるのだ。 その事に対して罪悪は恐らく感じない。ただ躊躇うとすれば一つ。 銀時ほどの大妖怪であれば、妖力を正しく注ぎ込めば十四郎を妖に変化させる事は容易く叶う。無論そうすれば十四郎が人間に引き擦られる事も無くなるし、妖力が足りなくて命を脅かされる事も無くなる。 だが、それをしたら十四郎は完全なる銀時の眷属と化して仕舞う。完全なる妖として生まれ直して、銀時の使い魔となる。 逆に言えば、彼の命を救った銀時にはそれを行う権利も力もあるのだ。──だが。 (これも馬鹿な畜生の考えだからなのか、それとも、) 夢に魘される十四郎の姿と、あの時あの荒地に斃れた男の姿とが脳裏にふと過ぎる。旨そうな魂だと熱望していただけのそれを、今は単純に愛しいと感じるこの合理的ではない感情の正体とに、銀時は匙を投げる様なつもりで目を閉ざした。 恐らく、十四郎は銀時が『そう』出来ると知れば、そうしてくれと頼むだろう。あの男は己が身が中途半端な妖である事を酷く気に病んでいるから。 だがやはりこれも、厭だとしか言い様の無い奇妙な感情の為せる技と思うほかにない。 だから銀時はそれをしない。出来る事すら隠して、十四郎が苦しみ惑いながら生きる様をただ見つめている。あの時と似ていて然し違うのは、それが死を望むのではなく生を願うものであると言う一点のみだ。 (……誓って、『これ』をただ護りてェだけだ、なんて) その考えは、まるで治りかけの傷に無遠慮に触れた時の様な不快感を胸中にもたらした気がして、銀時は苦し紛れに天を仰いで顔を隠した。 。 ← : → |