ねがいよかなえ / 5 鴉の鳴き声が遠くでしている。 それを既に骸となった男の耳は捉えていなかったが、奇妙な納得はあった。 ここは忌み地だ。都の人間ならまず誰もが近付こうとすらしないし、己とて出来れば近付きたくはない場所だ。 荒涼としたその地は、見渡す限り焦げた土と枯れた木々とを点在させているだけの場所だ。街道からは外れているが、大凡都の外に程近い立地とは思えぬ程に寂れ廃れている。 元は都の近くに済む人々がそれなりの集落を形成していたらしいが、幾年か前の戦火に因って焼かれ、修復の容易ではない戦禍を負い、沢山の死者を出してからは誰もが寄りつかぬ地となっていた。 曰く、死霊が出るとか妖怪が出るとか良くない事ばかりが起きるとか。余りにまことしやかに囁かれる噂話は、誇大でも何でも無く事実であると言ってもおかしくない存在感を以て都の人々に認識されていた。 廃墟の疎らに残るそこには、ぱっと見ても特別『何』がある訳では無いのだが、誰もがあの地を忌み畏れて厭う。立ち入れば化け物に喰われると噂が囁かれ、実際に不用意にそこを訪れた人間が行方不明になったり、野の獣の仕業とは思えぬ惨い骸となって発見される事もある。 つまり鴉たちはこの新鮮な骸を啄みに来たのだ。忌み嫌われるこの地に訪れる人間が遠からず一様に死す事を知ってでもいるかの様に。 死して畜生に食らわれる未来など流石に想像は出来なかったが、そう報いを受けても仕方の無い生き方をして来た自覚は、残念ながら己にはありすぎた。どう言い繕ってみた所で、平凡な人間の人生だったとは言い難い。 主であり友であった人の為にならば、幾つの骸を拵える事だって躊躇わなかった。それを知ればきっと彼は己を止めるだろうからと、彼にはあらゆる隠し事も嘘も重ねて来た。 彼の進む道さえ陽の元に在れば、その志が護られれば、それで良かった。 だが、己のそんな身勝手な言い分は最早誰に届く事も無く、報いの果ての死と消えた。 舞い降りて来て己を、啄もうとする鴉を見上げる。 鴉もまた、己を見下ろしていた。 繰り返す夢の先を何処かから俯瞰しながら、十四郎は徐々に確信を深めて行っていた。 多分、あの骸になる男は己なのだろうと。 だからあんなにも、この夢を見る度に苦しくて堪らなくなるのだ。死に行く男の気持ちが解るからこそ。此れが我が身に起きた事であるからこそ。 その記憶がこの身に一切無くとも、彼の──己の事が、解るから。何か果たせぬ悔いを抱いて斃れた事が、解るから。 (…じゃあ、それを喰らうこの鴉は、) 己が見ているのか、鴉が見ているのか、屍が見ているのか。この視点は、この夢を見下ろしている『己』とは一体何者だったのだろうか。 嘴に新鮮な血肉を滴らせて、不意に鴉が首を擡げる。 その硝子玉の様な眼の見つめる樹上に居たのは──、 * 鴉の鳴き声がしていた。気付けばけたたましい程の鳴き声を上げながら、黒い群れたちが付近の木々や廃墟の上へと連なり始めている。眼下の人間たちを、新鮮な屍肉になるそれらを喰らうべく何処からともなく集まって来ていたのだろうそれらもまた銀時と同じ様に、人間が人間だったものへと変化するのを待っていた。 鴉たちは、動物の鋭敏な感覚で察したのか近場に居る銀時の妖気を警戒している様だったが、銀時に屍(それ)に手を出す様子が無いと判断したのだろう、程なくして痺れを切らした様に鴉の群れの一部が動いた。その目指す先には先に屍と成り果てていた二人の男の骸がある。 一羽が、二羽が、男たちの骸へと降り立ち、剥き出しになっている腕に近付くとその肉を啄み始めた。そして一羽が仰向けに斃れている男の顔面へと赤い足跡を付けながら乗っかると、空を虚しく見つめる事しか出来なくなった、濁り始めている眼球へと嘴を突き込む。 すると湿った厭な音を立てて、潰れて嘴に刺さった眼球が勢いで眼窩より飛び出した。それでも男の身は最早ぴくりとも動く事なく、途端に増した気のする血と死の臭いとが、その人間が既に屍となっている事を雄弁に語る。 その瞬間、弾かれた様に鴉の群れが一斉に飛び立ち、転がる二つの骸を鋭い嘴で、爪で、好き勝手に引き裂き喰い散らかし始めた。立ちこめる新鮮な腐臭に銀時は顔を顰めながら、そう遠からず同じ途を辿る事となるのだろう、もう一人の人間を──死に体の男の方を見遣った。 男は斃れたその位置より随分と──距離にしてみればほんの僅かでしかないが──前へ進んでいた。伸ばす手の方角に何があるのかは矢張り解らない。無意味とも思える足掻きを、残る僅かの命の秒数で費やした彼の姿はいっそ哀れですらある。 ふと一羽の鴉が、這いずる彼の傍へと舞い降りた。二つの骸を喰いっぱぐれたのか、それとも未だ魂がその肉に留まる、屍に程近いがまだそうには至らぬそれが息絶えるのを待ち切れなくなったのか。届かぬ手の少し先に佇みじっと男の姿を観察する。 まだ骸では無いが喰うに問題ないと判断したのか、やがて鴉は男の背へと飛び乗ると鋭い嘴で項の辺りを突き始めた。まだ辛うじて生きている肉は鮮血を散らしたが、些細なその痛みに男が何か特別な反応を見せる事はもう無い。 (まあ、もう死体一歩寸前だしな) 不作法な鴉のその姿に肩を竦めるが、銀時の目当ては屍かその寸前の肉ではなく魂の方だ。それで男の命が潰えるのが少し早まる事ぐらい何と言う事もない。 そして鴉が男の血肉を啄み始めてから僅か数秒の間で、男は死に体から死体へと変わり果てた。とは言え別に鴉が殺したと言う訳では無いだろう。単に命がいよいよ潰えただけだ。 ふと、彼の血肉を嘴に纏い付かせた鴉が首を擡げて辺りを見回す様な仕草をした。釣られる様にして見れば、周囲に集まった鴉の内の何羽かが三体目の屍肉の存在を察知し群がり始めている。 黒い群れに覆われた他二体の屍は既に、常人であれば目を覆いたくなる程の凄惨な有り様に成り果てていた。眼窩や口や喉元と言った柔らかな所から肉は啄まれ、既に人相も解ったものでない。纏う着物も突き回され引っ掻かれ、はだけた胸元や腹から覗く肉はまだ温かく湯気を放つ内臓を撒き散らしている。 あれはもう人間ではなく、人間だったものだ。そしてそれはこの鴉の群れにとってはただの餌でしかない。人間であった彼らが生前抱えていた苦悩も歓喜も無関係に、ただ喰い散らかされるだけの肉と化して仕舞った。 そしてそれは三体目の骸とて例外ではなかった。俯せて前方に手を伸ばした侭息絶えた屍を、その新鮮な肉を喰らおうと、鴉たちが集まって来る。 だが。 最初に彼の肉を啄んだ鴉が鋭く鳴いた。それは他の鴉たちに警戒や敵意を示すものだったのだろう、周囲の鴉たちが一斉にその一羽を見る。 カァ、と警戒の声を上げた別の鴉が、新たな骸に近付こうと飛び上がると、骸の上に陣取ったその一羽は羽を広げまるで威嚇する様に鳴き返す。そしてその一羽は、あちらにこちらにと、骸を啄もうとする他の鴉たちを近付けまいとでもするかの様に、奇妙な抗いをし始めたのだ。 眼下で繰り広げられ始めたそんな奇妙な光景に、流石に銀時も思わず腰を浮かせた。仲良く三体の骸を啄み始める筈だった鴉の群れ、その中の一羽が突如他の鴉たちを相手取って戦う様な姿勢を見せている。 屍と化した男を、その骸が食い散らされる事を厭う様に、次々飛びかかる鴉たちに羽を広げて威嚇をして飛びかかっては爪や嘴を向ける有り様は余りに唐突な変化であった。 (まさか、) 銀時は思わず樹上から飛び降りると、鴉たちの輪の中へと近付いて行った。銀時の強すぎる妖力を受けて、鴉たちは泡を食って散り散りに飛び立ち辺りの樹や廃屋へと逃げて行くが、矢張り、と言えば矢張りと言うべきなのか。他の鴉たちに抗い立つ様にしていたその一羽だけは動かなかった。 そればかりか、近付く銀時に向けても威嚇をし抵抗も辞さぬ様に鋭く鳴いてみせた。 「………」 銀時は思わず舌を打った。目の前のこれは最早ただの鴉ではない、妖の気を持った化け鴉だ。 恐らくは、死の寸前にあった男の血肉を通じて、あの男の魂を喰らってその身に宿して仕舞った──或いは男の魂が鴉の身へと乗り移ったとでも言えば良いのか。 ともあれ、極上の魂は目の前から取り上げられた。この化け鴉を引き裂いた所で、得られるのはただの鴉の魂だ。混じり合って内包された『人間の』魂だけをそこから引き摺り出すのは如何な大妖怪とは言えど不可能だ。 それに少なからず、近くに居た己の妖気が鴉の変容に何か力を貸して仕舞った可能性は否定出来ない。単に鴉に目当ての魂を横取りされただけとは言いきれまい。何より、黙って傍観し過ぎた己にも非がある。 落胆と、失せて仕舞った食欲とに深々と溜息をつくと、銀時は己よりも明かに強大な妖に向けて、それでも抗おうとする鴉の姿を見下ろした。 「そいつはもう意味のねェ骸だ。今の様じゃよく解んねぇかも知れねェが、お前がその骸に戻る事はどうしたって出来やしねェ」 己の──己だったものを護ろうと抗っているこの鴉は、今は単純に本能めいたもので動いている筈だ。魂がどうあれ鴉の脳味噌である事に変わりはない。人間としての頭脳は疎か意識も明瞭では無いだろう。 故に銀時は淡々と、鴉のその抗いが無駄なものであると告げた。この鴉が必死になって己だったものの血肉を、骸を、骨を護った所で、何にもならない。一度魂の抜けたものは等しく屍になる。そこにもう一度魂を戻し生き返ると言う、摂理に背く術は存在していない。 「お前は死んだが、悔しいから未だ此処に残ってんだろ。無意味な骸を、手前ェの墓をまた死ぬまで護る為に留まった所で、その無念は晴れやしねェよ」 果たして銀時のそんな言葉を理解しているのか、いないのか、鴉はじっと硝子玉の様な眼で九尾の妖を見上げて来ていた。 生まれたばかりの妖であるその鴉に、銀時は同じ妖に対する様に振る舞う事にした。目当ての魂を喰らい損ねた所で八つ当たりに引き裂いても良かったし、そうする事も出来た筈なのに、己にも非があったと妙に理性的な思考を働かせてまで、銀時は鴉との対話を選んだ。 興を惹かれたと言うのは、ある。あの旨そうな魂を持った人間がどんな者であったのか。この段階ではまだきっと、これはそれだけの話だった。 「そこで提案だ。その骸は俺が責任を持って葬ってやるから、その代わりにお前は俺の眷属になれ」 どうだ?と骸の前へとしゃがみ込んでそう問えば、命の失われた骸の上で鴉はまるでただの動物の様な仕草で首を傾げてみせた。 その様子からも、この妖が未だ生まれ立ての赤ん坊の様なものなのだろうと確信した銀時は、鴉に対して、突くなよ、と仕草で示しながらそっと骸に触れた。 未だ体温の残る身体をひっくり返せば、ぐにゃりと脱力した四肢を曲げながら仰向けに転がった骸の、その面相がはっきりと晒される。 長い黒髪を白い頬に散らして、血化粧も凄絶に忘我の表情を形作った男の顔立ちは酷く整っていた。泥と血とに汚れたその顔を袖口で軽く拭ってやると、銀時は骸の胸元に掌をそっと触れさせ、微弱な妖力をそこに送り込んだ。 言って仕舞えば大妖怪の匂い付けをした様なものだ。これで、少なくとも屍が自然と土に還るぐらいまでの年数ぐらいの間は、低俗な腐肉喰らいの様な妖や、野の鴉や蝿や犬と言った動物に喰われる事は避けられるだろう。 (……ん?) ふと気付いてみれば掌の下に、男の纏う黒い着物の胸元に何やら紙の感触がある。何だろうか。 振り返るが、銀時がそうする間、鴉は抵抗を見せる様子もなく、果たして先の提案を理解したのか了解したのか知れないが、ただ黙ってその場に留まっていた。 仕上げに、銀時は男の骸を抱えて立ち上がると、先頃まで己の居た樹の根本へと向かい、そこに妖力でぽかりと穴を掘った。辺りで未だ恨めしげにしていた鴉たちは驚いた様に鳴き交わしながら飛び回っていたが、やがてどうしたって得られぬだろう三体目の屍肉を諦め、残る二体の屍の解体作業へと戻っていった。 穴の中へと骸を横たえ、土をかけて葬る。人間はこうやって同族を悼むのだったかと思い出しながら掌を合わせてから立ち上がれば、生まれたばかりの鴉は──彼は、得ていたかの様に差し出した銀時の腕の上へと飛び乗って来る。 その時初めて涌いたその感情こそが、九尾の大妖怪が永い生の中、ただ一度だけ犯した過ちとでも言うべきものだった。 。 ← : → |