ねがいよかなえ / 6



 連れ帰った鴉に人の形を取らせた時、それは迷う事もなく生前の姿形を選び取って構築した。無意識にそうしたと言うより、きっと魂の形がそう定まっていたのだろうと思う。鴉であった名残と言えば、妖力で出来た背の翼と黒い装束以外には無く、彼は見てくれだけではまるで人間の様であった。
 …銀時の葬ってやった、あの人間の男の容姿そのものの人間の様であった。
 その背に流れていた長かった髪は真っ先に切って仕舞った。襟足の所で綺麗に整えられた髪に、未だ人間の姿に慣れぬ筈の十四郎は──自覚も無しに──違和感を憶えている様だったから、その方が邪魔にならないだろうと言ってやった。
 十四郎は銀時のそんなささやかな嘘を、然し特に疑問を感じるでもなく受け入れた。それからはずっと、髪が伸びて来ると銀時が鋏を入れると言う習慣が続いている。
 十四郎の髪が項より先の長さになる事は無くなった。彼は頭頂付近で結われてはいない己の髪に未だ時折違和感の様なものは感じているらしかったが、その違和感の正体にまでは至っていない。己を鴉の妖であると思い込んでいる故に、元が長かったから、などとは流石に思う筈も無かった。
 銀時は一匹狼の妖だった。狐なのに狼と言うのは冗句としては冴えないが、ともあれ妖として成り立ってからはずっと一人で過ごして来ていた。故に己の妖力を分け与えた眷属を──しかも不完全に──作ると言う事は初めてで、正直勝手も余り良く解ってはいなかった。
 それでも鴉だった十四郎は、銀時の妖力を受け入れて、人の姿形を得て、短い髪を受け入れて、妖の生をごく当たり前に享受していった。
 彼の生前の記憶が失われていたと言うのは、多分その点では良い方向に作用していたのだろう。人としての記憶や精神性がその侭に残っていたらさぞ苦悩し混乱しただろう事は想像に易い。
 然し十四郎の心に刺さった杭はその魂の何処かに傷を穿った侭、治らずいつぶり返すとも知れぬ畏れを宿し続けていた。銀時が幾ら妖力を与えようが情を与えようが髪を切ろうが、十四郎の魂は己の刻んだ悔いを、失われたその無念を、自覚も罪悪も無い侭に抱え込んで離さない。
 それを、己と言う妖に対する抵抗の様だと、銀時は自嘲めいて思う。
 所詮は畜生から生じた妖怪の浅知恵なのだと、人間のややこしい心や感情たちが嘲笑っているかの様だ。幾ら銀時が十四郎から『人』であったものを取り払えど、彼は無意識にそれを忌避する。
 日々与える妖力はこぼれ落ち、少しづつ髪は伸びる。情だけは溜まって行くけど、それそのものはどうとも昇華されるものではない。
 だから、情や愛だけではきっとこの存在を縛る事など出来ないのだろうと、銀時は薄々そう気付き始めていた。
 つまりそれは、十四郎が何かの拍子に夢と失われた記憶とを結びつけて仕舞ったら、その時彼は銀時の元を去って行くだろうと言う想像に他ならない。
 きっと、十四郎は──あの時あそこで死んだ人間は、自らに課した悔いを果たさねばならなかったのだろう。少なくとも、そう強く思って死んでいった。
 だが、それは人界の道理の筈だ。今の、妖と化した十四郎を縛る意味など最早無い。
 それでも、十四郎は嘗ての己の貫こうとした意志を、途を、無意味であっても辿る事を選ぶだろう。それだからこそ、そう言う質だったからこそ、あの魂は酷く旨そうに見えたのだから。
 そうしていつか。
 大事に囲った筈の鳥は、妖の元から去って行って仕舞うのでは無いだろうか。
 それを防ぐ為には、十四郎を完全に自らの眷属にして仕舞う以外に方法が無い。髪を切るどころではない、魂を縛ってその翼を切り落としてありとあらゆる自由を奪う、以外には。
 だがそれは厭なのだ。少なくともそれ以外に取れる手段を考え悩み続けるぐらいには、厭なのだ。離れて行く事は恐ろしい癖に、自ら放すのだけは厭なのだ。
 果たして銀時が欲しかったのは旨いだけの魂だったのか、それとも己を無条件に慕う眷属の様な存在だったのか、この人間の真似事のままごとを共に演じてくれる何か──或いは"誰か"──だったのか。
 きっと、一人きりの永くて虚ろな心には、他者の心こそが響き易かったのだろう。
 
 
 だから銀時は、人間であった頃の悔いに引っ張られ、妖として弱って行く十四郎の事をただ見ている事より先に進めずにいた。是にせよ否にせよ、それが己の望む結果にはならぬからと。
 (それをして、消極的に諦める事を選んだんだと言われちまえば、否定出来やしねェが)
 物憂い溜息と共に、いつの間にか止まって仕舞っていた包丁の動きを再開させる。今日は滋養がつく様に猪肉と野菜を煮て卵を溶かした粥を作った。十四郎の食欲は相変わらず無い侭だったが、出汁だけでも摂れば足しになる筈だ。
 それに、久方ぶりに人里まで足を伸ばして珍しい桃を拝借までして来たのだ。銀時はその果物を以前一度だけ食した事があるのだが、とてもみずみずしくて美味しいものだった。喉の通りも良いし、きっと十四郎も気に入るだろう。
 薄い皮をつるりと器用に剥いて、種を除くとなるべく小さめに切る。もしも食べられない様だったら、布に包んで絞って果汁だけでも飲ませよう。
 兎に角、減り続ける妖力を少しでも補う為には、体力をつけさせなければならない。本来純粋で力の強い妖であれば食物など必要ともしないのだが、かと言って食物の摂取自体が無駄と言う訳では無いのだ。妖とは言え生きているものである以上、肉体的な栄養でも雀の涙程度の足しにはなる。
 あとは何より、気持ちの問題だ。十四郎が元々人間であった魂を抱え込んでいる以上、人間らしい行動や生活に引き摺られる事は──あるだろう。だから食物の摂取を『必要なもの』であると無意識に捉えている可能性も。
 (………そうか。ひょっとしたら、それでか)
 ざく、と果実を刻んだ包丁の刃が己の指に食い込むのも忘れて、銀時は茫然とその理解を得た。思えば簡単な事であったのに、どうして今の今までそれに思い当たらなかったのだろうか。それとも、思い至っていて気付かぬ素振りを続けていただけなのか。
 この、人間の生活を模した箱庭こそが、十四郎の意識を人間であった頃のそれに無意識に呼び戻していたのだ。だから人間であった彼からは、その生の抱いていた無念や執着もそこに纏わりついて離れない。
 忘れて仕舞えと囁いてみた所で、それを思い起こさせる様な生活を強いる、矛盾。まるで人の様な暮らしは、成り立てで脆弱な妖の心を容易く『人間であった事』へ呼び寄せるに決まっている。
 なまじ『人』の模倣をするからこそ、きっとそれから逃れる事は出来ないのだと言う事実を突きつけられた気がして、銀時は血の滴る手で苛立ちの侭に壁を思いきり殴った。
 例えばもっと普通の妖らしく、樹の上や洞の中にでも棲まい、近くの人里に適度に存在を誇示する事で崇められ、或いは畏れられる事で妖気を得て暮らしてでもいたら。
 否。今からでは何を言った所で繰り言でしかない。所詮は己は人に焦がれた妖で、彼は人である事を已められぬ妖だ。
 ままごとの様な生活を強いて、それだと言うのになお彼を人間であった頃の記憶から遠ざけたいのであれば、矢張り銀時に出来る手段は一つしかない。十四郎を完全な妖の眷属として己の妖力を注いで『造り変え』て仕舞うしか。
 だが。
 そうして仕舞えば失われるものが、きっとある。この、己の裡に涌いて根付いた、役立たずでどうしようもない感情や、それのもたらしてくれた感慨や。
 「……」
 壁から拳をそっと引き剥がせば、滴っていた血も包丁の抉った肉も綺麗に元通りに治っている。そんな己の掌を見つめて、銀時はやりきれぬ思いに眉を顰めながら、煮えた鍋を火から上げると竃に蓋をした。昔人里から取って来た木彫りの素朴な椀に粥を掬って入れる。
 あれも厭だ、これも厭だ、では何一つ進まない。そんな事は解っている。厭な結果を後回しにするだけでは何にもならず悔いるだけだとも。解っているのだ。
 (出来る事と言や、多分三つしかねェ)
 それでも考えたくはない事ばかりだから、端的に、安易に分類した結論を呼び寄せた。どれに一票を投じるかの決断は出来ない侭に、銀時は選択肢を指折って数える。
 (一つは、黙って時を待つ)
 これは恐らく最も楽で最も苦しまずに済むだろうが、最も望まぬ結果を最期には齎す可能性が高い。
 (一つは、十四郎を完全な眷属にする)
 これは結果だけを見れば最善とも思えるが、出来れば避けたい方策だ。十四郎が人間であった頃の精神性や悔いや苦悩を完全に削ぎ落として仕舞う。だがその代わりに自由も生殺与奪も銀時と同一化する事になるから、反抗や口喧嘩も無くなるし、人間らしい有り様も失せていく。
 (……もう一つ、は)
 彼の無念として残された侭になっている、悔いを取り除く事。
 だがそれは、十四郎を彼の生前の記憶に近付ける事でもある。人間であった頃のその想いを──妖である事を忌避するかの様に今でも彼を引き擦っているそれを取り戻す事で、十四郎は妖から離れて行くやも知れないのだ。
 それは、髪を切って、人間であった頃の姿から少しでも遠ざけようとして、夢を見る度それを忘れろと願う、そんな愚かな妖の抵抗を嘲る事実に近付く選択。
 十四郎自身には記憶や彼を縛る悔いの正体が解らない侭だ。だからこの選択肢は銀時にしか選べぬものであると同時に、最もしたくはない最後の愚かな決断として伏せた侭で置くしかないものだ。
 そして恐らくそれは最期の最期にまで決して切りたくはない鬼札だ。十四郎を人間であった彼に戻すと言っても良い──手放すと言い替えても良い、少なくとも銀時にとっては最も避けたい手札でもある。
 選べなければ、選ばなければ、選ぼうとしなければ、十四郎は遠からず息絶えて仕舞うだろうと、もう気付いているのに。幾ら愛しても幾ら大事にしても、彼は銀時の手から遠ざかって仕舞うのだろうと、もう解っているのに。
 (…ホラ見ろ。どうしたって、こんなん始めっから勝負にすらなってねェんだ)
 早く食事を運んでやろう。そんな努めた事務的な行動で、銀時は向き合わねばならぬ思考を無理矢理に投げ捨てて放棄した。粥を入れた椀の横に、横に切った桃を乗せた皿を添えた盆を持つと炊事場に背を向ける。
 まな板の上に出来ていた筈の盛大な血溜まりも、壁についた筈の血の染みも、大妖怪の直面した苦悩の痕跡すらそこには何一つ残っていなかった。







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