ねがいよかなえ / 7



 目蓋をぴたりと閉ざして眠る十四郎の姿を見た時、銀時はまず真っ先に彼が呼吸をしているかの確認をせずにはいられなかった。薄く開かれた侭の唇の上にそっと指先を近づけて、ほんの少しでも指の腹に息遣いを感じた所で腰が抜けそうに安堵する。
 妖であれば本来、呼吸なぞ確認せずとも妖気の有無や強弱でその大体の状態を把握出来るのだが、今の十四郎には最早それも侭ならぬ様な状態だった。
 「…十四郎」
 食事を乗せた盆を横に置き、銀時は静かに睡る十四郎の両頬を掌で包んだ。輪郭を幾度か指先で、掌全体でなぞって、それでも身じろぎ一つ、言葉一つ発さぬ唇に口接ける。
 触れた場所から呼気でも吹き込む様に妖力を分け与えるが、それが十四郎の身に宿る事なく霧散して行くのを見て取って、銀時は唇を噛んだ。妖である筈の存在が人間の魂に引き擦られると言う事は、妖と言う存在の破綻でもあるのだと、まざまざと思い知らされる。
 「十四郎、」
 口にした名前は震えて余りに弱々しい響きとなって、ひとりきりの静かな家に虚しく落ちる。それを拾うべき存在が喪われる事を思えば怖い。悲しい。苦しい。
 この人間は──或いは鴉は、この大妖怪の永き生に深く入り込んで仕舞った存在だ。刺さって抜けない鉤の様に食い込んで離れず、他の何かで慰める事もきっと出来ない。そして傷は徒に残り続けて妖の心を苛むのだろう。永きを生きるものだからこそ、その負う苦悩は時を経ても薄まる事無くより増す。
 「何処にも、行くな」
 やっとも思いで発した気のする声は馬鹿みたいに震えていた。それを聞くべき者は深く眠っていて、本来何をも恐れぬ権能を持つ筈の大妖怪の見せた、弱音にも似た必死の願いなど届かないと言うのに。
 これを彼の侭、ここに、この侭留めておく方法。その答えをだけ欲する、愚かしい程に小さな願い。そんなものはただ永くを生きるだけしか取り柄の無い畜生には、本来望むるべくも無い様なものだったと言うのに。
 「十四郎」
 覆い被さった肩口に顔を埋めて、銀時は震える唇を噛んで項垂れた。人間ならばこう言う時泣いたり叫んだりして己の嘆きを表すのだろうか。絶望を癒やす為の手段として、苦しいばかりの情愛でさえも何れ忘れようとするのだろうか。
 「……銀時」
 やがて、目を醒ましたのか寝起きの掠れた声と共に、銀時の背に辿々しく十四郎の手が辿り着く。その声からは無条件の安堵や情の答えが確かに感じ取れて、銀時は己のこの感情が独り善がりなものでは無い事を確信して悲しくなる。こんな時ばかり聡く、銀時の弱い部分を優しく宥めようとする脆弱な鴉が愛しくて、悲しくて堪らなくなる。
 この想いが勝手なものであったら、きっともっと容易く決断は出来た筈なのだ。完全な眷属にするも、消して仕舞うも。
 (俺が決めて良いんだって、そう言われる方が堪えるって何だよ)
 手前勝手な言い分を苦く噛み締め、指で探った未だ短い襟足を指に引っかけると、くすぐったいのか十四郎は小さく笑った。
 「…おはよう?」
 「もう昼。でもお早う」
 寝惚けてでもいるのか、珍しく目元から力を存分に抜いて言う十四郎に、銀時は答えながらその額に口接けて、結われる事の無くなった頭頂から後頭部までを慰撫する様に幾度か撫でた。
 髪を切ったのは、彼を少しでもあの頃の姿形から遠ざけようとする、銀時なりの悪足掻きだ。だから十四郎が、銀時の与えた新しい姿形を受け入れてこうしている事が仄暗く嬉しかった。
 そっと身を起こした銀時は、背に手をやって十四郎が起き上がるのを手伝ってやる。その様は妖と言うよりも矢張りただの人間の様だ。背の翼も妖力の無用な流出を避ける為なのか今は実体化していない。
 「飯は?食えるか?」
 まだ湯気の立っている盆を取り上げて言うが、十四郎は気付かなかったのかそちらを見ようともせず、まだ夢見心地の様な表情をしてぽつりと呟いて寄越した。
 「……夢を、見た」
 恐らく殆どは独り言と変わらなかったのだろうそんな言葉に、銀時は激昂しそうになる心の波立ちを必死で堪えた。ぼんやりとしている十四郎の両肩を掴んで、もうその話はするなと頭ごなしに言い聞かせたくなる、全く意味がない癖に乱暴な衝動。澱み続けた己の感情が荒れてぐしゃぐしゃに崩れそうになる。
 「…………いつもの?」
 焦りか、苛立ちか。今までであれば聞き流すなり躱すなりした筈の言葉が上手く出て来ない。無理に形にして吐き出した問いは、きっとどう答えられた所で望まぬものになる事が解りきった、酷く空々しい言葉であった。
 銀時の裡の苛立ちを察した訳でもあるまいに、十四郎は肯定も否定もしない侭、布団から引っ張り出して先程まで銀時の背に触れていた己の掌を無言で見下ろす。
 それから数呼吸。やがて十四郎は自らの掌を不意に何処へともない奈辺へと伸ばすと、その指先を緩やかに折り畳んだ。何処にも届かない、届かなかった手を。
 「ずっと考えてたんだが、やっぱり、」
 衝動的にその手を捉えようと動きかけた銀時を制する様に、十四郎の言葉がゆっくりと紡がれる。銀時が思わず目を瞠ったのは、そう呟いた十四郎の顔に紛れもなく穏やかな笑みが宿っていたからであった。
 無念の手を伸ばした彼の、何処にも届かぬ事を受け入れ畳んだ手の、その先で。
 十四郎は柔い微笑みを浮かべた侭、銀時を見た。
 「あの夢を見ていたのは、お前だったんだな」
 「──、」
 「だって、『俺』の視点じゃ指先しか見えやしねェ。誰かが何処かから見てなけりゃ、最期まで手ェ伸ばして這いずって何処かへ向かおうとしていた事なんざ、解りやしねェだろ?」
 思わずぱくりと間抜けに口を開いた銀時の驚きを余所にそう、まるで子供が己の大発見を親に聞かせるかの様に十四郎は笑ってそんな事を言う。
 「俺には、記憶なんて無ェけど、アレが多分自分だったんだろうって感覚は何となくある。でもそれだとしたら俺は俺を見る事は出来ねェ筈だ。だからあの夢はきっと、お前が思い出してる記憶なんだろう。それが、お前から貰う妖力を通して俺の中に来たんだ」
 銀時は愕然とした。人間だった彼の死に往くあの場面を思い出した事は幾度もあった。それと同じものを十四郎が見ていたと言うのだとしたら、誰あろう銀時自身が十四郎を人間にしようとしていた事になる。人間じみた暮らしをさせていたどころか、夢を通じてまで人間であった彼の姿を描こうとしていた事になる。
 だが、言われてみれば思い当たる節も確かにある。元々銀時は人間であった十四郎の魂に食欲を憶えて強く欲したのだから。その思い入れが強く残っていた可能性は高い。
 望んだのは、ただの食料だったのか。孤独を癒す為の何かだったのか。それに足りれば何でも良かったとでも言うのか。
 思いも寄らぬ真実の可能性に茫然とする銀時に、然し十四郎は歯を見せて子供の様に笑いかける。
 「形はどうでも良いんだ。お前は多分あの男の──俺だったものの死を、俺である筈だったものを、悼んでくれたんだろ」
 「十四郎、俺は──」
 「俺に──『俺』に悔いがある事を、俺よりも悼んで、悲しんでくれたんだろ、お前は」
 じゃなきゃ、あんな死に様の人間ひとりの姿を、いつまでも憶えている訳なんて無い筈だ、と。
 生まれて大して時も経ぬちいさな鴉の妖は、死の淵で足掻いていた人間の様に──きっとそう言う表情だったのだと確信はある──苦しげに、然し安らかな得心を湛えた顔を起こした。
 多分それは彼の言う様な綺麗な感情や感傷ではない。だが、どう言う形であれど銀時の裡に根付いたものであった事は確かだった。それを十四郎に想うまでに育ったものであった事だけは、確かだったのだろう。
 安らかとは恐らく程遠かった筈の人間の死は、果たしてどの様なものであったか。銀時の記憶には詳細には無い。整った顔立ちは血と泥に塗れていて、それでもきっと。
 「天下の大妖怪様にとっては、それすらただの憐れみや気紛れだったのかも知れねェけど、きっと『俺』は、それでもお前に救われたのだと思ったから、此処にこうして居るんだろう」
 後生大事に護っていたと思っていた世界や、享受し耽溺していただけの時間は、きっと既に銀時の手を遠く離れていたのだろう。いつからか、ではない。いつかから。ただ庇護し執着し抱えていただけのものの事を、銀時の目は見ている様で見ていなかったのだ。
 「なぁ、銀時。俺はお前に感謝しているし、『俺』も多分それは同じだ。だから、お前がそうしろって言わねェ限りは何処にも行きやしねェし、何も望んじゃいねェ。俺はもう十分だから、後はお前が決めてくれよ」
 それは本来銀時の最も恐れていた筈の言葉だったと言うのに、そこには想像していた様な悲壮感や諦めは欠片も無く。若く、半端で、脆弱な妖の決めて寄越してくれた、何よりも雄弁な想い一つだけがあった。
 安寧を与えて慈しんで愛した箱庭の中で、少し窮屈そうに笑う鳥の弱さが。或いは強さが。それを黙って聞くほかなかった銀時には酷く尊いものに思えた。
 十四郎は恐らく気付いている。銀時が妖力を加減なく与える事で、己が完全な眷属に至る事を。そしてそうなった時、人間であった筈の彼が喪われるだろう事も。
 そして或いは、銀時が何れの選択も採らなければ後はただ消えるだけの己の運命も。
 知って猶、解っていて猶、受け入れる事をも辞さぬ心は、単なる思考放棄から出たものではない。一度悔いと絶望とを知った後だからこそ生じた、透徹とした納得。諦めと等価であってまた少し異なってもいる、酷く説得力のある言い種であった。気休めでは到底言えまい。そんな言葉。
 「元々、死んでた身には過ぎた話だったんだ」
 銀時の決断を後押ししようとでも言うのか、態と自嘲めかして言って笑う十四郎の背を銀時は抱き寄せた。
 この大妖怪の脆くて弱くて情けない、我侭で怖がりであった心をまるで悟られた様な気がしたのに、それが腹立たしいものではなく嬉しいものとして感じられると言うのが不思議だった。これが子を持つ親の気持ちと言うやつに似たものなのかどうかは、生憎と前例が少なすぎて判別するには難しいと思えたが。
 どんな形であれどんな存在であれ、『これ』を喪いたくはない。だが、失われるかも知れないが、その可能性を恐れてただ望まぬ結果を待つだけでも居たくは無い。
 あと、必要なのは手を放せるのかどうかと言う、庇護者としての責だけだ。十四郎がその結果何を選ぼうともそれを認め尊重出来るかと言う、覚悟だけだ。
 「……選択肢は、もう一つある」
 重苦しさを堪えて吐き出された銀時の言葉に、十四郎の身が僅か怯える様に震えた気がした。







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