ねがいよかなえ / 8



 銀時が取り出し示してみせた『それ』を見た瞬間、十四郎の胸の裡には得も知れぬ様な不快なざわめきが走った。
 明確な記憶が何かあった訳では無い。見覚えのあるものでもない。ただ、予感、とでも言うのか。『それ』が恐らくは己の、或いは己だったものの運命を違えたものなのだと、確信する。
 「お前が──人間だった頃のお前が最期に持ってたもんだ。中身は見てねェ」
 言って、銀時が布団の上へとそっと乗せた『それ』は、物質として言えば紙だった。
 折り畳まれた、手紙。その表面には急いで書かれたのか少し乱れた筆の文字で、宛てた名が書かれている。
 「多分、それがお前の、悔いって奴だ」
 「……」
 どくり、と心臓が大きく跳ねた。鼓動を突如思い出したかの様に激しく心音を打ち鳴らす心臓は、十四郎の全身に血流と酸素とを送って、激しい衝撃に堪える様身構えさせている。脳が忙しなく、ある筈の無い記憶を手繰って、喉が渇いて、手が震えて、『それ』を──その文の本来果たす筈であった役割を思い出せと促す。
 "近藤勲"
 この文の宛名なのだろう、墨で刻まれた名が、十四郎の心臓を魂ごと揺さぶる。その名を、抱いた志を、知れと訴える。それは理屈でも現象でも無い、此れを知る事は御前自身を取り戻す事なのだと悟らせる。
 震える手で文を裏へと返すと、折り目に重ねる様にして差出人の名が同じ筆跡で書かれていた。
 「土方、十四郎」
 その文字を、響きを、名を、乾いた唇が紡いだその瞬間、十四郎の目の前にその光景が蘇った。
 
 
 近藤さんにこの事を早く伝えなければ。
 走る土方の頭の中はその一念一色に満たされていた。前だけしか見ないでひた走る彼の様子を、一体何事だろうと見る目は幾つもあったが、声を掛けたり邪魔をしたり或いは手助けをしたりする者は一人もいない。この都の人間たちはいつだってそうだった。誰もが日々の己の生活だけを護って生きる事に必死で、他人に関わっている暇など無く、況してそれが無用な厄介事を運んで来そうな事であれば猶更だ。
 土方の定宿は既に割れている。山崎の投宿している民家はまだ遠い。故に、安全な場所へ取り敢えず一旦逃げ込んで、そうしてから文を書くつもりだ。文を山崎に預けたら、その先はいっそ捕まっても問題は無い。寧ろそうして敵の目を己に向ける事も手段の一つとして土方は覚悟済みでいた。
 土方が間者だとは既に露見している。となると、敵は土方がどの様な情報を漏らしたのか、誰の手の者なのかを吐かせたい筈だ。無論、問答無用で始末される可能性も全く無いとは言えないが。
 それでも、主である近藤を護ると言う大義さえ果たせれば、土方に悔いは無かった。
 
 大急ぎで認めた文を懐に隠し持って、再び都に出る。だが今度は出来るだけ目に付かぬ裏通りを選んで慎重に行動した。追っ手も既に土方が町中へと一旦身を隠した事ぐらいは悟っている筈だ。そうなると人数を増やして虱潰しに動いているだろう。
 文を山崎の元へと届けるまでは兎に角見つかる訳にはいかない。
 頭巾を被ってぼろ布を羽織って態と背を屈めながら、土方は都の片隅の貧民窟へと向かった。
 そろそろ山崎との定時連絡の頃合いになる。それまでに彼の潜む家へと辿り着いて、この文を渡さなければならない。
 
 刀を、藁束に隠して持ち歩いていたのが仇になった。長い藁束を抱えた浮浪者と言った風体の土方に声を掛けた追っ手は直ぐにその正体を見抜いたのだ。
 元々演技など得意では無かった土方は、一度怪しまれた所で即座に、変装して逃れると言う選択肢を諦めて、追っ手の一人を殴り倒して逃げ出した。
 あと少しで待ち合わせの場所だったのだが、追われている今この状態で山崎と接触するのは危険過ぎる。
 逃げ出した土方に、敵は即座に呼び子を鳴らして応援を呼んだ。どうやら想像以上に多くの人数が己の追撃に割かれていたらしい、と呆れ混じりに思いながら、兎に角追っ手を撒こうと、都の外へと出る事にした。
 騒がしい町と待ち合わせに現れない土方。山崎ほどの男であればそこから事態を察する事は叶うだろう。そうなれば救援が送られる期待も出来るかも知れない。
 この辺りの貧民窟は元々、戦で崩された都の外壁のあった場所に出来たもので、都の外も中もあったものではない状態となっている。野放図に家や家の様な建造物が建っていたり、木材や藁で天幕の様なものが拵えてあったりと、到底地図など作製出来ない様な地域だ。
 更にそこをもう少し離れると、余り近づきたくはないが、嘗ての戦火に晒された忌み地がある。最悪、そちらの方へ逃げ込めば敵も追撃を諦めるかも知れない。
 懐の手紙の重みを感じながら、土方は羽織っていたぼろ布を脱ぎ捨てて駈け続けた。
 
 追っ手は忌み地を避ける事と土方の命を取る事との選択肢を悩む事は無かったらしい。
 鴉の甲高く鳴き交わす不気味な、廃墟や倒壊した建物の残骸と言ったものが疎らに散るばかりの荒れ地で、土方は追っ手を返り討ちにする事を選んだ。
 勝算は高くはない。だが、それでも賭けるほかにもう選べるものは無かったのだ。
 懐に潜ませた手紙ごと、敵は土方を殺そうとしている。なれば、彼らを殺してでも生き延びるしかあるまい。
 近藤に伝える為に。彼らの居る場所へと戻る為に。
 
 そうして二人を道連れに斃れて。
 文を。届けねばならぬ人を。帰らなければならない場所を。求めて手を必死で伸ばして。
 
 
 「──」
 がつんと脳を殴られる様な衝撃に一瞬呼吸を詰まらせ、十四郎は上体を折って咽せた。
 「十四郎、大丈夫か?!」
 優しく背を撫でてくれる手の下で、十四郎は己の──恐らくは己のものだった筈の記憶を手繰りかけた侭の所で何とか踏み留まった。妖の身を裡から蝕まれる様な不快感と苦しさとに何度も切れ切れの呼吸を繰り返して、憶えの無い新鮮な痛みに涙をこぼす。
 (これが、)
 きっとこの記憶が、掌の上に乗っているこの紙一枚が、己を妖から遠ざけ人間に近づきたいと願う悔いの正体なのだ。人間だった己が、届けられなかった手紙を悔いて、嘆いて、その無念さを未だ猶十四郎に思い出させようとしている。
 それが銀時の与えてくれた暮らしと、彼もまた何かを悔いて見たのだろう夢とを通じて、十四郎にこの悔いを思い出せと、この杭を抜けと、ずっと訴え続けていたのだ。
 (俺は、この手紙をあのひとに届けなきゃならなくて、)
 折り目を僅かたりとも開いた様子の無い手紙を見つめて、十四郎は己の裡の何処からか涌いて来る衝動に堪えて口を引き結んだ。後から後からこぼれる涙が、悔しさから来たものなのか、無念さから来たものなのか、虚しさから来たものなのかさえ、今ではもう解らない。
 滑稽だった。そんなものに杭を穿たれ縛り続けられている己の矮小さが哀れだった。
 この手紙が必要とされていたのはもう幾年も前の事だ。妖の身では解り難い年月の推移は、人間の世界ではより顕著なものだ。もう既にこの手紙は届かぬ侭時を経た。この手紙の有無に拘わらず人間の社会は時間と共に動いている。
 そんな無意味なものを後生大事に、悔いとして抱えていた己と言う人間が、愚かで、憐れで、馬鹿馬鹿しいと思えて、それが悲しかった。
 ぐしゃりと、手の中で手紙が──大事だった筈の、命を賭す理由があった筈のそれが、しわくちゃに握りしめられる。
 確かに死ぬ瞬間までそれは何よりも大事なものであったのかも知れない。だが、死んだその後には最早何の意味も為さないものに成り果てていたのだ。それだと言うのに、そんなものに、そんなものの穿った杭に、今もこうして縛り続けられている。今もこうして悔い続けている。
 明瞭ではない呻き声を漏らして泣く十四郎の手の中で、それでも破ったり棄てたりする事の出来ぬ手紙に銀時の掌が優しく包む様に触れていた。
 「届けに行こうか」
 言って、銀時の手指はやんわりとした動きで、十四郎の強張った指を一本一本丁寧に剥がし、ぐしゃぐしゃに握りしめていた手紙をそっと、酷く大事なものの様に抜き取った。
 「今更、こんなもの、」
 無意味な人間の死と無意味な妖の生と。思い知った事実の中で苦しさに喘いで呻く十四郎の背を撫でながら、銀時は諭す様にゆっくりとした調子で言う。
 「俺がその文を、それがお前の悔いなんだって解ってても今まで出す事の出来なかった理由は、言っちまえば手前勝手な我侭だ。それを──化け鴉に魂を宿らせてまで護ろうとしていたそれを見た時、お前は多分何処かへ行っちまうんだろうって思い込んじまったからだ」
 すまねぇ、と九尾の大妖怪は酷く頼りの無い声でそう呟くと頭を垂れた。
 お前がそんな事をする必要は無いと反射的に思った十四郎がその頭を抱きしめると、銀時は悲しそうに顔を歪めて不器用に笑いかけてくれた。
 銀時が妖としても永い時間を一体どう過ごして来たのかを十四郎は知らない。妖になる前にどの様な事があったのかも知らない。
 それでも、彼の描いた生き方は人間の様なもので、人間の様な優しさを体現したものだった。だからこそはっきりと知れる、この大妖怪が人間と言うものに焦がれ愛していたのだろう事は、疑い様の無い事実だ。
 その孤独な優しさと想いとに、十四郎の胸は打たれた。妖で在ろうとしては苦しむだけだった全ても今なら理解出来る。人間の時に抱いた心が根付いて離れなかったのは、人間の魂を裡に抱えた不完全で脆弱な妖を、銀時が消さず失わせずに居てくれたからだ。
 だから十四郎は、土方十四郎は、今この場に生きている。
 「今更。今更だけど、お前はこれを破かずに居てくれた。棄てずにずっと持っていてくれた。もう俺にも、俺だったものにも意味なんか無ェものだってのに」
 十四郎は、己の手から遠ざけられた文を見た。ぐしゃぐしゃについた皺は今己が握りしめたからついたものであって、それまで手紙そのものは封を開けた形跡も無く、破ったり無造作に扱われたりした様子も無く、その侭で留め置かれていた。
 銀時はきっと、これの為に命を賭した土方十四郎の心を、生を、尊く思ってくれたのだ。『それ』が十四郎の悔いであると知っていても、棄てる事も忘れる事もしなかった。
 「……お前は、どうしたい?」
 銀時がもう一度問う。これは、無意味な生の証であって、死の結果であって、今の十四郎をこれまでずっと形作って来たものだ。今更でしかないものだが、それでも、これが大事に護られていた事には意味も、理由もある。
 銀時は十四郎の悔いごと心を消して仕舞おうとはしなかった。毎日妖力をちまちまと与えるより楽な方法を知っていても、土方十四郎の魂を護る事を選んでくれた。
 そうして生き存えたのがこの『自分』だと言うのならば、答えは一つしかない。無意味かどうかではない。ただ、中途で終わったそれを終わらせなければならないと言うだけの道理。
 「届けに、行きてェ」
 皺の寄った文に手を伸ばして、十四郎は頷いた。最早意味を失ったただの紙切れだが、届けたかった言葉や想いは、死したとしても無為には消えないと、そう思いたい気持ちが自然と涌いて来ていた。きっと、人間であった頃の己とやらの心がそれを望んでいるのだろう。
 そして、この悔いを消す事の出来る機会は、もう此れを於いて他には無いのだろうと十四郎は薄々感じていた。
 悔いを果たした時、己がどうなるのかは解らない。人間の魂らしく成仏でもするのか、妖として不完全な侭消えて仕舞うのか。
 何れであったとしても、十四郎は己の裡でいよいよ存在感を主張し始めた悔いへと向き合う事にした。少なくとも此れを果たさなければ、きっと己は己ではいられない。
 決心を見せた十四郎を労る様に髪をそっと撫でると、銀時は文の皺を伸ばしてから、それを十四郎の手の中へ持たせてくれた。





今更ですが、この世界で言う「都」は京都じゃなくて、京都っぽいかも知れないどこかです。時代は江戸どころか戦国時代よりずっと前の、妖怪が存在してられた様な時代っぽいいつかです。…つまり言語や文化はそこはかとなく一致する、架空の日ノ本の架空の時代です。

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