けだものたちの百の企み / 12 宿、と言ったものの、車が停車したのはひっそりと佇む旅館の前だった。慣れているのか、お抱えの運転手に京極は、呼ばれるまでは休みにして構わないと指示を出し、運転手も、何時間滞在するのかと言った無粋な質問は一切出さずにただ頷くのみで応じる。 土方が座していたのは後部席だ。この車の主人である京極と隣り合って乗っているのだ、それは警護と言うお役目を既に外れた『客』の扱いでもある。然し運転手が回り込んで来て扉を開くより先に土方は降車し、目的地の建物を見上げた。 青く繁る竹林と塀とにぐるりと土地を囲ませた、瀟洒な佇まいの二階建ての和風建築だ。その窓辺はとうに夜も更けた時間だと言うのに、室内の薄ら明るい光を明け透けではない程度にぼやりと映している。 立地としては、繁華街からはそう遠くもない様な場所で、周囲には疎らに同じ様な料亭や旅館が点在している。そんな区域だ。 (まあ要するに連れ込み宿だな) 密やかだが猥雑な印象の無い宿を見て、土方はそう納得した。普段こう言った施設を、その本来意味するところの用途で使った事は無かった。場末の安っぽいラブホテルやビジネスホテルならば、銀時に連れられよく利用していたのだが。 あからさまな看板らしいものも外には出ておらず、門扉の所に控えめな『旅館 お久山』と書かれた看板が掛けてあるのみのその佇まいからは、この宿が秘めやかな役割の為に存在しているのだと伺わせるには容易だった。 土方の形は、隊服姿では流石に不都合が出じるやも知れぬからと、無礼を断ってから目立つ上着を脱いであり、スカーフも外した姿だ。更に車をさっさと降りて塀の陰に位置取りをしている。これならば、場所柄止ん事無い人間のゴシップを狙う記者が万一居たとしても、易々真選組の副長とは気付くまい。まあざっと周囲を伺った限りでは怪しい気配も人影も見当たらなかったが。 深々と一礼した運転手を乗せた車が走り去ってから、京極は宿を観察していた土方の腰へと手を添えて「それでは、行こうか」と促した。ごく自然なその所作からは、こう言った行為にこの未だ若い幕臣がよく慣れていると知れる。 銀時はどうだったか。歩きながらふとそんな事を考える。 誘いが成立すれば、手を引くでもなく肩を寄せるでもなく、各々で適当に歩いていたか、と記憶を手繰った土方は、不意に強く腰元の手を意識させられた。 (…野郎は、こんな風に捕まえとかねェでも俺が付いて来ると解ってたからか?) 言葉だけで成立した利の一致には、拘束力の類は無かった。だからなのか、土方は己を捕らえる男の手に僅かな不快感を憶える。だが、振り解く程ではない。否、振り解きたいと思うより先にその手は一旦離れた。 フロントに当たるのだろう、玄関を入って直ぐの狭い部屋で、京極はそこに待機していた老人と幾つか言葉を交わすと、慣れた様子で鍵を受け取る。その代わりに金が入っていると思しき封筒をそっと小卓へ滑らせると、彼は再び土方を促して階段を昇って行く。 小部屋を振り返るが、老人は小卓に向かって新聞を読む態勢に戻っており、客を興味深げに観察しているなどと言う事は無かった。流石にこう言った商売だ、弁えていると言う事なのだろう。ざっと見回した限りでは廊下にも小部屋にも、監視カメラの類すら設置されていない様だった。 (秘密厳守か。まあそうでも無ければ地位のある幕臣様が利用する訳も無ェが) 警察の身からすると実に厄介な手合いである。が、今は自分が利用する側と思えばこの上無く理想的ではある。 人が漸くすれ違える程度の幅しかない階段を昇ると、そこには板張りの床の廊下があった。天井にではなく壁に、凝った透かし彫りの木枠に覆われた間接照明がぼやりと光っており、その薄暗い光源に照らされた扉が幾つか並んでいるのが見えた。仮に客同士がすれ違う様な事があったとして、薄暗さを理由に知らない振りの出来る環境の様だ。 職業柄の癖で、つい建物の構造を考えて仕舞う。外から見た建物はLの字型をしていたから、きっと廊下の奥は九十度に曲がって、また同じ様な廊下が続いている筈だ。薄暗くて先のはっきり見通せない廊下の果てを見遣って立ち止まった土方を、先を歩く京極が振り返って見ていた。 促す言葉は無かったが、無礼に当たるだろうかと考えつつ土方は、彼の立ち止まった扉の前へと大人しく向かう事にした。建物の構造を把握した所で、どうせこんな所で切った張ったの騒ぎなど起こるまい。 京極が鍵を開け、室内へと先に入る。それを追えば、簡素なワンルームが目の前に広がった。畳張りの床、格子の取り付けられた窓、廊下と殆ど変わらぬ薄暗さ。廊下のものと揃いの、飾り覆いの被せられた灯りと、枕元に置かれた行灯の和紙越しの柔らかな光とに映し出された部屋の内部は概ねそんなものだった。 否、あともう一つ。畳の中央付近に敷かれた大きめの布団の存在だ。 (和風な形してやがるが、まァそこらのラブホと、置いてあるもんはそう変わらねェか) 入り口の脇には、洗面所とトイレとシャワーのある水場への扉がある。戸の開かれていたその暗闇の中をぼやりと見ていると、横からするりと体を寄せられた。 「シャワーは使うかい」 背中から腰に掌が這って来るのは少しこそばゆい。土方が首を竦めれば、男の吐息が首もとに寄せられた。腰へ回された手と逆の手は襟元を、いやにゆっくりとした速度で緩めようとして来る。 「……そちらは?」 「どちらでも」 汗をかいたりする様な事は無かったが、護衛と言う職務の間は当然だが体を拭う暇など無かった。シャワーを浴びて綺麗にして来いと望まれるなら浴びて来ようかと土方は問うが、男はかぶりを振った。首筋に音を立てて口接けられて、土方はこれから始まる行為の始まりを思って小さく笑んで言う。 「では、無しで」 正直面倒で億劫だった。溜まりに貯まったストレスを発散するのに、面倒くさい問いなど必要無いのに、と思う。銀時とこう言う事をする時は、いつも作業の様に当たり前の様な時間を過ごして来たから、余計に間怠っこしく感じるのかも知れない。 隊服が皺にならない事を半ば諦め混じりに願いつつ、小脇に抱えていた上着を取り落とす。それから刀を鞘ごと外して壁に立て置いた。 押される侭に布団に腰を下ろして、上に手を伸ばして相手の襟元を緩めれば、さっさと先に進む土方から慣れた所作を感じたのか、彼は益々満足そうに目を細めて、土方のベストの前を割ってシャツ越しに膚を掌で愛撫して来る。 「ん、」 指が乳首を摘み上げる。布越しの固い感触に土方の喉は小さく鳴って、首をぐっと反らす。その侭布団に後頭部を落とせば、香で何か香りを付けられているらしい、甘い匂いがふわりと漂った。 シャツの釦を外され、掌がひたりと膚の上に触れた。滑らかな手の皮が筋肉と骨の上を跨いで臍の方へと手取り降りて行く。 「──」 土方は思わず息を詰めた。ぞくりと、膚が快楽とは違う意味で粟立つ。 慣れない手の感触がそこにある。銀時の、剣胼胝のある固くて大きくて温かい手とは、同じ様な形をしていても、違う。感触が。 はっとなって見上げれば、そこには見知った銀髪の男ではなく、見知ってはいるが知らない男の顔が、、 「………………っ!」 何故か喉をついて何かの叫びが漏れそうになり、土方は咄嗟に片手で自らの口を覆った。それは多分みっともない類の、拒絶やそれを訴える悲鳴なのだと悟る。 身体が強張って、手が拳を形作る。目の前の男を殴らずにいられたのは多分、はっきりと踏み留まっていた理性だった。 男は全身を強張らせた土方の様子を、緊張や快楽に因るものと判断したらしい。ベルトを緩める手つきの合間に自らの、固くなり始めた下肢を土方の足に擦りつけながらその手を止める素振りは一切見せない。 それは当然だ。これから、己はこの男と、ストレスを紛らわす為のセックスをするのだから。男はどう言う訳か土方を自らの性欲の対象として認識しているのだから、ここに至って止まる訳もない。 何しろ、これは『合意』の上での、作業なのだ。 だと言うのに、土方の身は──或いは意識は、何故かこの行為に途方もない嫌悪や恐怖に似たものを憶えている。 知らぬ人間の体温や感触や匂いが厭だと言うのでは無い。知ってはいるが知らないと言うのが何故だか余計に忌避感を煽る。 これは、違うと。 これは、厭だと。 「、」 己の裡の本能的な部分が訴えるその叫びに、土方が拳を益々強く握りしめたその時、些かに間の抜けた電子音が薄ら暗い室内に響いた。 土方ははっとなって、枕元に先頃落とした隊服の上着を見遣った。電子音はそこから、規則正しい音を鳴らしている。 携帯電話の音だ、と気付くや否や、土方は己を組み敷く男の体から這い出して、上着をまさぐって震える携帯電話を探った。 「、すみません、緊急の連絡の様です」 藁にも縋るとはこう言う事を言うのか。取り上げた携帯電話の着信音が鳴り止まぬ事を祈りながら、土方は落ちていた上着を拾い、刀を掴むと素早く居住まいを正して挨拶もそこそこに部屋を飛び出した。無礼だとかそんな事はもう構っていられなかった。 まるで修羅場に鉢合わせて浮気相手の所から逃げて来た様な姿だと自らを嘲りながらも、外されていたベルトを締め直すのも面倒で、引き抜いて階段を駆け下りる。 騒音に、何事かと軽く顔を上げる老人にちらりと目を伏せて、土方は宿の玄関を飛び出した。未だ鳴っている携帯電話の通話ボタンを押すと、宿から少しでも離れる為に夜道をふらふらと歩いていく。 《副長?大丈夫ですか?》 なかなか電話に出なかった事を気にしたのか、開口一番心配の言葉を投げて来る、その問いに、土方は左右に身体を揺らしながら路地裏へと入って行き、その侭壁に手をついて崩れる様に座り込んだ。山崎の聞き慣れた声にこんなに安堵を覚える様な事は未だ嘗て無かった。 「……あぁ」 声音が震えそうになったので、溜息を添えて頷く。恐怖と言うより、そこから脱した時の高揚で身体が言う事を上手く聞いてくれそうもない。掴んでいた隊服と刀が力なく地面にぼとりと落ちる。 緊急の電話ではない事は、音が鳴った時から解っていた。緊急の場合は聞くだけで直ぐ解る様に、それ専用の所から連絡を寄越す様にさせているので、着信音が少し異なっているのだ。 「で、どうした」 《ああ、別に大した事じゃないんですが、》 言い置いて山崎の話した内容は、本人がそう言った通りに仕事の上の些事であった。土方が机に向かっていれば普通に訊くだけで済む様な内容なのだが、目の前にいない以上はこうして電話を通じて訊くほかない。 それを聞いた土方は、良いタイミングでのこの電話に心底感謝しつつも、山崎にそれを気取られぬ様に、問いに対する幾つかの答えを投げた。恐らく平静は装えていただろう。その証拠に、電話に出る事が遅かった事を初めとする疑問には特に深入りしようとせず、用件を終えた山崎はあっさりと電話を切った。余り遅くならんで下さいよ、と、いつも通りの言葉を添えて。 「………」 携帯電話をぱたりと閉じると、土方は背を丸めて大きく息をついた。本当に良かった。山崎が疑問を思いついて電話を寄越して本当に良かった。このタイミングで本当に良かった。 (…もし、あの侭だったら、つい手が出ちまってただろう) 客観的な判断は、然しきっと正しい。口に入れた食べ物がとても食いつけぬ味わいをした時に、反射的に呑み込むのを拒否し喉がえづくのと同じだ。あれは、何とも形容しがたい、ただの──嫌悪感としか呼びようの無い、衝動であった。 釦の外されたシャツは開いた侭、夜風でひやりと膚を冷やしている。幾ら温暖であっても、膚を直接夜に晒すには抵抗があって、土方は前を寄せる様にぐしゃりと服を握り締めた。その時。 「──!?」 ざり、と言う音を耳が認識したかしないかのタイミングで、背後に何者かの気配を感じて、土方は地面に落ちた刀を探るべく手を伸ばしながら振り返った。 然し土方の手が愛刀の鞘を探るよりも早く、背後から飛びかかる様に両肩を掴んで押し倒される重量と動きとに逆らえずに、地面に背から転がる。 辛うじて打たなかった頭を素早く狼藉を働いた者へと向けて、そこで土方は目を見開いた。 街灯の光も届かない、殆ど真っ暗のその隘路の中。見上げた眼に、光源も無いのに耿って見える銀色の髪だけがいやにはっきりと映っていた。 。 ← : → |