けだものたちの百の企み / 13



 味気なく胃に重たい酒であっても、現実をひととき靄がかった酩酊に浸す役には立つ。不毛だとは思うが、酒に逃げる楽さを一度でも知って仕舞った怠惰な人間は、アルコールの齎すその効能からは易々逃げられはしない。
 酒は苦しい失意の感情を薄めも忘れさせてもくれないが、少しだけ遠ざけてはくれる。楽にはならない。だが、僅かの間だけは考える力を放棄させてくれる。ぐずぐずに脳が酩酊して仕舞えば、その瞬間だけは余計な事を考えずにいられる。
 憶束ない足を前へと動かせば、地面はぐにゃぐにゃと柔らかく、銀時の重たい靴底を受け止める。平衡感覚の確かで無くなった視界には、よく晴れてぬるい空気を保った夜の街並みが揺れていた。
 こんな時は今までの銀時であったら、アルコールの効果が作り出した陽気な気分その侭に、輪郭の定かで無くなった町を心地よい千鳥足で闊歩していられただろう。浮かれた心地で下手くそな鼻歌でも奏でながら、電柱に抱きつきつつも家路へと向かっていられた。
 吐いた息は酒臭い。脳は確かに思考力を酩酊に溶かしてくれてはいたが、その気分までをも楽観的なものへ引き揚げてくれると言う訳にはいかない様で、結果的に銀時の頭は役立たずの侭でぐるぐると同じ様な思考を浮かべては消して、浮かべてはまた消して、を繰り返すばかりになっていた。
 正しく不毛だ。それでも、碌に広がらない思索を続けると言うのは、結論に至るよりは幾分か楽であった。幾ら考えた所で決して変わりはしない、それを遠ざけておけるだけでも多分に楽だったのだ。
 議題は一つ。そして解答も既に決したものが一つ。考えずにいるだけでその明確な未来が先送りにされると言う事も無いのだが、それでも楽だったから、不毛と知りつつも銀時は盃を重ねて来た。重ねた杯のずっと下にいつかそれが潰れるだろうかと淡い期待を抱きながら。
 三十年近く生きてきて、恐らくは生まれて初めてそうと自覚し受容した感情であった。恋と名付けられるに相応しく、或いはそれ以上の情と言うに適したその感情は、銀時の裡である時突然芽生えて、目覚めて、その瞬間に棘の様な存在感を以てそこに居座って仕舞った。そんなものには決してなる筈が無いと思っていた種の余計な感情に、気付いて仕舞った。
 思考を放棄しようとする脳の中でも、それは明瞭な情と欲とを欲して存在感をただただ誇示し続ける。叶わず消そうとしたそれを、未練がましくも訴え続けている。
 厭だと。
 諦めきれぬと。
 不毛の涯に結論を見出していても猶、潔く無いその感情の正体こそが、片恋を薄めずに乞い続ける苦しさそのものであって、要するところただの無いものねだりの我侭であった。
 想いを寄せた相手にあったのは、当初から全く変わらぬ侭の感情だった。否、感情ですら無かったのかも知れない。打算、利の一致、体の良いストレスの解消手段。そう言ったもので埋め尽くされた彼の男の裡には到底、何か個人的な情や恋の生じる可能性の隙間などある筈もなかったのだ。
 銀時はあの関係を恋と言う感情に昇華して仕舞ったが、彼の方はそうでは無かった。
 銀時はあの関係を己とだけの時間にして欲しいと思ったが、彼の方はそうでは無い。
 まるで気分は、一晩の情を求めて買った遊女に本気で入れ込んで仕舞った、分を弁えぬ男の様だった。相手は身体を重ねることをただの手段、方法としか見ていないのに、銀時はそれを、想いを通じ合わせる為の手段にしたくなったのだ。
 それでは駄目だ。利害の一致と言う共通した目的は破綻する。利は一致すれど害が生じる。ただ目的を果たせば良いだけの関係性に、過分な情が、邪魔にしかならない余計な感情が付随して仕舞うから、駄目だ。
 銀時が居る間は良い。だがもしも、都合が合わなければ。そんな時に必要に迫られれば。彼は銀時の『次』を普通に選ぶ。手段として、何の痛痒も罪悪感も無く。
 それが、セックスフレンドにも満たなかった二人の関係性の全てだった。『普通』の事として誘い誘われて用を済ますだけの、道具の様な存在。
 結果、銀時はこの恋を棄てる事にして、その癖に未練がましい感情から抜け出せずにいる。
 (最初に、抱いたりなんてしなきゃ良かったのかね)
 酒臭い吐息に混ぜてそんな事をぼやく胸中に、それはただの結果論だと冷静に指摘する己の声が響く。あの一言から始まった関係性で、恐らくは感情の運びなのだから、その前提を覆す事に意味など無い。
 だが、安易に身体を重ねて得るものを得たからこそ、きっとこの虚しい恋は始まって、途端に終わったのだ。だから、いっそ銀時もそれをただの目的の侭であると、愚鈍にそう思い込んだ侭でいれば良かったのだ。
 (あいつと同じで、ただストレスの発散とか、そう言うもので終わってた方がマシだったかも知れねぇな)
 堂々巡りだ。そうすれば恋は成就せずとも肉体関係だけは続けていられたなどと、幾ら嘯いてみた所で己の感情はそうは行かない事に気付く。独占欲とか嫉妬とか、そう言った煩雑で邪魔なだけの恋情の正体に気付かないでいられる筈が無いのだ。それに今現在こうして振り回されているのが良い証拠だ。
 手近な電柱に手をついた銀時は溜息をつく。酩酊を保った頭は熱く、見上げた夜空の冴え冴えとした眩しさが厭に脳に響いた。そんな、星や街の灯に目を灼かれる不快感に負けて視線を下へと戻せば、繁華街からは少し離れた街並みにいる事に気付く。
 見覚えの無い界隈ではない。どこをどう歩けば何があるかぐらい、かぶき町に住んで長い銀時には大体が把握出来ているのだ。
 薄暗い、連れ込み宿の点在する区画の四つ辻。振り向けば遠い繁華街の光がぼやりと見える。今更そちらの方へ足を向ける気もせず、銀時は酒臭い呼気を撒き散らしながら千鳥足で前へと進んだ。直接家の方へと向かう方角では無いが、気の向く方へと。ただ意味もなく。
 「………?」
 ふと、何か音が聞こえた気がして、銀時は瞬きをした。音の出所を探って頭を巡らせれば、竹林に鬱蒼と覆われた建物の方から響いて来たのは足音。固い、靴底の打ち鳴らす音に合わせて、人影がそこからまろび出て来た。
 彼は、足を止めて方角を確認もせずにふらふらと走って、その背中はあっと言う間に真っ暗な夜道へと遠ざかり消えて行った。
 「……………、」
 頭を横合いから殴られた様な衝撃に、銀時は酔いも忘れてその場に立ち尽くしていた。全く、何の偶然なのか。何の意趣なのか。何者の仕業とも知れぬ悪戯な邂逅に、眩暈さえ憶えそうになる。
 見遣った、竹林に囲まれた建物は連れ込み宿だ。そうと解る看板は出していないが、雰囲気やこの辺りの場所柄間違い無い。
 そこから、泡を食った様に飛び出して来たのは、見間違える筈もない、ここ最近ずっと銀時の思考の対象となっていた男の姿だった。
 連れ込み宿から、出て来たのだ。当然一人で入った訳ではあるまい。
 今までそれを共にしていた役所であった筈の銀時は、此処に居る。
 つまり誰か、別の──、
 「……」
 様々な想像に腑の奥がふつりと熱を持つ。怒りか、妬心か、或いはもっと理不尽な感情にか。忽ちに煮崩れそうになった脳が促す衝動の儘に、銀時は彼の去った方角へと足を進めた。
 夜道を迷わず辿る、足跡も匂いもしない筈のものの後を強い感情だけで追って。その様はまるで獣が獲物を追い詰める時の様だった。






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