けだものたちの百の企み / 9 ちびりと舐めた酒の味は、久し振りに口にするとは思えない程に味気無かった。然し幾ら安い醸造酒と言ってもアルコールはアルコールだ。脳を役立たずにする役には立つ筈だと思って、二口目は思い切りよくコップを傾けた。喉を鳴らして胃の奥底へと無理矢理に流し込む。 そんな銀時に、良い飲みっぷりだねえと隣席に座る顔も名前も知らない親父が笑いかけて来たので、適当に返していると店主も乗っかって銀時の財布事情を揶揄し、狭い店内にひととき賑やかなだけで一瞬先には意味の無くなる様な笑いが沸き起こる。 明日には忘れる様な連中と、僅かの時間だけ意気投合し盃を交わして笑い合うのは好きだ。この平和のご時世では、昨日笑った友が明日には死ぬなんて事は滅多にないから、些細な時間を得難いとはそれ程までに思いはしないが、この一瞬を適当に飲んで笑って過ごすのは矢張り気分が良い。 恋人にフラれてヤケ酒かい、と適当に解釈した親父がジョッキを奢ってくれるのを有り難く頂戴して一気に飲み干す。起こる歓声。無責任な笑い声たち。 それでも、ほろ酔い程度の所から進めずに冴え冴えとした意識を振り切る様に、銀時は口元の泡を拭ってもう一杯を要求した。 味の無い酒は矢張り幾ら重ねても、期待していた様な心地よい酩酊を銀時に連れて来てはくれそうもない。アルコールに浸されてなお冴えた脳は下らなくて埒もない思考を続けては酒を不味くしている。まるで銀時にその答えを提出する様にと求めている様に。 取り敢えず、一ヶ月は経った。少なくとも数えていた限りでは日は三十回昇って沈んで日々を無為に刻み続けている。 何からの数えかと言えば、土方と最後に会ってからだ。もっと具体的に言うと、性処理と言う名前のセックスに興じた最後の日からの日数の一部になる。 セックスフレンド未満の関係は不定期で、以前から示し合わせて約束事にした事は一度も無い。電話とか、個人的に連絡を入れた事も(入れられた事も)無い。全ては最初の時と同じだ。『そう言う』気分の時に街を歩く土方を見かけたら声を掛ける。それで大体は事足りた。 そんな、偶然に頼る事の多い関係でも問題は無かったのだ。今までは。 何せ土方は真選組屯所から頻繁に外に出て来る。巡回、仕事、煙草の購入、近藤のお迎え、飲み屋への外出──街でその姿を見かける事は非常に多いと言えた。 銀時も特に何も考えずに、土方を見かけて『そう言う』気分ならば近寄って行った。敢えて探そうとせずとも、約束など取り付けずとも、出会えたし目的は果たせた。 だから、気付けば街中をその姿を探して歩いている己の行動に気付いた時、銀時は多少なりとも動揺したのだ。銀時にとって土方の存在はイコール、セックスであり性処理であったのだから、そんなに溜まっていたか、と首を傾げもした。 然し幾ら街を歩けど求める姿は見つからず、わざわざすまいるの方へ向かえど、見かけたのは酔い潰れた近藤とそれを介抱している禿頭の真選組隊士のみ。 ここに来て銀時は、最近特に考えも無しに抜いていた──土方とのセックスに興じていた──事に対する異常性に気付くに至った。『あれ』が、少なくとも己の今までの性処理の頻度には明かに勝ち過ぎてはいたなと、渋々気付かされたのだった。 若い盛りでは無いと言っても、日々暇を持て余している事の多い(ギリギリ)二十代の男性である。定期的、の度を超えて抜く事に体が変に慣れて仕舞ったと言う事もあるかも知れない。 もっと日照りの生活もして来たし、そこまで己の性欲が貪欲だなどと思ってもみなかったので、銀時は、街を必要以上に黒い色彩を探してきょろきょろとする己にそう思う事にしたのだった。 まあその内見つかるだろう。そう思って数える内に日付はどんどん過ぎて行き、気付いた時には(少なくとも)一ヶ月以上も土方の姿を見かけていないと言う事実に気付かされた。 そこに来て漸く銀時の裡に浮かんだのは、別れ際の──最後に会った時の会話だった。 「ごっそさん。親父、ツケで頼まぁ」 「またかい?困るよぉ銀さん」 飲み干したコップ酒の喉越しの悪さに密かに顔を顰めつつ、銀時は適当な所で暇を告げて席を立った。さっきまで隣で笑っていた男は泥酔してカウンターに突っ伏していたし、さっきまで同じ下らない話題で笑っていた他の客も今はまた違う話に花を咲かせている。 向けた背に追い縋る様な店主の声が、困ると言いながらも、仕様がないな、と言う表情をしているのを知っている。一晩で忘れて仕舞う様な酔客同士の笑い声が、だからこそ心地よいのも知っている。 それでも、酒の狭間に差し込まれた不快な記憶や思考に対する答えだけはよく解らない。些事に。或いは些事以下の『なにか』がどうしてこうも己を煩わせ続けているのか。 気付けば夏も終わりに差し掛かった頃の、湿気を含んだどろりとした夜気には、悪酔いにも似たこの気分の悪さを晴らしてくれる様な爽やかさは無く、銀時は肩を竦めると火照った顔を明るい歓楽街の夜空へと投げ、それからのろのろと歩き出した。 まだ日付は過ぎていない、夜の中頃の時間帯のこの街は、未だ消えきれない賑わいの直中にある。飲んで笑って埒を開けて、それから次の段階へ進む者たちや、誰かの待つ帰路へつく者たち。酒臭い人いきれの中に酔いそうになりながらも、銀時の足は街の奥へと向けられていた。 吉原の様な風情や風格は無いが、種類だけは多様ないかがわしい街の空気は、胸の裡の酔いを更に悪くしそうだった。それでも、出来るだけ隙のある歩みで道を往けば、段々と銀時の気分も『そう言う』熱を思い出し始める。 土方の姿を見かけなくなってから、銀時は幾度か一人で抜いている。体が良くて楽なセックスばかりを憶えて仕舞ってから調子が悪いのならば、一人遊びの生活を思い出せば自然と元に戻ると、そう思いもした。 然しどう言った訳か、お気に入りの筈だったAVでは愚息の機嫌は余り良くならず、抜いている筈なのにすっきりとしない。寧ろ却って不満や不快や、それこそストレスに類しそうな成分ばかりが脳の裏側に堆積して行く様な錯覚まで憶えて仕舞う。 だが、今日は気が向いた。味のしない酒と不快な記憶が余計な事を色々と思い出させたからだ。 適当に、その辺りに安い外娼でもいないだろうか。何なら安くて好みの子のいそうなソープでも構わない。思って道の左右へと視線を向けるが、その目は矢張り無意識に黒い色彩を追い掛けている。 「………」 気付いて顔を顰めるのと同時に溜息が出た。どうやら相当に、不定期とは言え一人遊び以外の事を憶えて仕舞った銀時の肉体と脳味噌とはいかれて仕舞ったらしい。 (つぅか、最後の憶えがあんま良くねェから悪いんだろ。多分) 唇を尖らせて頭を掻きながら、銀時は花街の奥深くに差し掛かっていた足を止めた。思い出しただけで一気にそんな気分は失せて仕舞う程に、土方の言い種は気に入らないものだったのだろうか。それとも態度だろうか。兎に角何かが意に沿わない。何かが解らないから何もかもが気に喰わない。 足を止めた銀時に近付いて来る、露出の高い装束を纏った若い女を適当にあしらうと、不健康に賑わう街の喧噪にそっと背を向けて、賑わう雑多な街路へと戻る。 (あいつだって、会えば毎回の様に『ああ言う』関係になんのぐらい解ってた筈だ。だから、俺があいつを何となく探す出すのと同じ頃に、あいつだって姿を見せてたってのは多分間違ってねェんだよな) そうでも無い限り、『その気』が起きて見回せば大体の場合捕まるだなんて、そんな都合の良い事がまるで予定調和の様に繰り返された筈は無い。 徹頭徹尾、銀時と土方との関係は利や害の一致と言う一つの答えでのみあった筈だ。それを互いに理解していたからこそ、無用な干渉はしなかったし踏み越える様な躊躇いめいた感傷も持っていなかったのだ。 (………崩したんだとしたら、それは多分、野郎自身の意思って事になる) 憶えある最後の日に寄越された不快な会話も、それ以降全く姿が見当たらないのも。土方が自らそう解って仕向けない限りは起こり得ない事なのだ。 それだけは幾ら考えた所で、考える度不快を覚えた所で、変わりようのない事実だ。 「……」 それが気に入らないのか、と、掴みかけた気のする結論を奥歯の狭間に擦り潰したその時、銀時の視界に黒い色彩が映り込んだ。反射的に動いた眼球がそれを追い掛ける。 果たしてそれは直ぐに視界に収まって、その正体を銀時の眼へとまざまざと見せつけて来た。少なくとも銀時には久々の鮮烈な黒い色が、そう、見えた。 警察車輌の横で、部下らしき運転手の男と会話をする、土方十四郎の横顔。 その表情は銀時の密かに知る様なものでは決して無く、真選組の副長の顔をしていた。 だが、銀時は知っている。唇の狭間で揺れる煙草の味を知っている。それを味わう咥内の味を知っている。それを吸った血液の齎す体温を知っている。或いはもっと熱いものを。 着込んだ黒い装束の下の皮膚の色も。肉の感触も。目の前で会話をしている、それなり多くの時間を共に付き従っていたのだろう、顔も憶え知らぬ部下の知らぬ様な事を知っている。知り尽くして来ている。味わい尽くして来たから、知っている。 誰も他には知らない筈の事を、知っている。恐らくは、自分だけが。 或いは、知ってい『た』。 「──」 言葉にならぬ熱が喉から熱い吐息になって溢れた。肚の底が熱い。不快な火種で燻っていた筈の臓腑が熱くて、訴え紡ぐ舌の根本まで爛れて崩れ落ちそうだった。 銀時は真っ直ぐに土方の姿を見た。視線の先へと真っ直ぐに、足が進んで行く。 やがて、ただならぬ気配の接近に土方が気付いて顔を振り向かせる。「よぉ」我ながら剣呑だと思う声が酷い熱と共に吐き出されて、土方は少し動揺した風に眼を瞠らせると寸時游がせた。躊躇いの間だろうと銀時は直感する。 「……先に上がってろ。俺ァ少し歩いてから帰る」 警察車輌の運転席、そこに座している部下の肩を労う様にとんと叩くと、土方は剣呑な挨拶を寄越した銀時の間合いに入るより先に歩き出した。それを無言で追う銀時にはある意味でそれは好都合だった。無防備に近付かせたりしたら、無理矢理腕を掴んで走り出しそうな──或いはもっとどうしようもない様な事をして仕舞いそうな──気がして堪らなかった。 遁れる意図では無い土方の足取りを追って、銀時は身の裡で今にも煮崩れそうになった人間らしい理性を必死で保って歩き続けた。 面倒な感情の必要無い、人間らしさなど欠片も無い関係だけで良かった筈のものだった。それなのに、銀時は今己を騙して誤魔化して、薄ぺらい理性ひとつを上辺に乗せて保っている。それを顕わにするのは閨の中での時間だけ。けだものであるだけで良い瞬間だけ。 獲物を追い掛け追い詰めて喰らう、他の何かでは代え難いその悦楽を得たかった。他の誰かでは足り得ないその享楽が欲しかった。だからけだものは人間らしからぬ顔で嗤って、自ら否定した筈の余計な情を思い知る。意味を知った事で軋み始めた破綻の音を、より渦巻くばかりの激情の熱の中で知る。 けだものの皮を被った人間は、夜道をまるで狩る獲物に誘惑される様にして進む。欲以上に大きく熱を孕んだ、憤慨や不満と言ったものを無理矢理に人間の鋳型(理性)で塗り固めて、その癖剥き出しの牙からは涎を滴らせながら。 。 ← : → |