風雨臥し聽くその夜闌けに / 11 遠くから地響きの様な振動と、音がする。遠雷だ。 窓の外の雨の音は徐々に勢いを増しており、まるで砂嵐のテレビの様にざわざわと落ち着かない音を辺りに響かせている。 初夏の夕立にしては雨音が長く、重たい。湿気で空気が澱む。頭痛がする。 これは本降りだな、と、うとうとと浮上しまた沈む意識の底で銀時は考えて、首をひねる。 そう言えば、あの晩もこんな風にいきなり雨が降って来たのだった。成程、道理で具合が悪いと感じられ、ひとりきりの眠りが静かだと思う訳だ。 * 遠くの空から響いて来る重たい音を、銀時は最初、花火の続きだと思っていた。だから多分、気付くのに遅れたのだろう。ほたり、と目の前の地面に黒い染みが一つ二つと落ちて来るのを暫しぼんやりと眺め、それが膝に乗せた手の甲に水滴となって滴った所で初めて、思い至って立ち上がった。 雨だ。 「…オイオイ、何だこりゃ」 思わず口の端を曲げて仕舞う。先頃まで華やかで鮮やかな花火を咲かせていた真っ暗な空は、いつの間にか湧き出したぶ厚い雲に覆われ、酷く澱んだ色を墨絵の様に重たげに伸び拡げていた。 そうして拡がった雲からは、火の粉を打ち上げたお返しと言わんばかりに大きな雨粒が次から次に落ちて来ている。掌で目元に庇を作った銀時は辺りを暫しきょろきょろと見回すが、人の気配やざわめきと言ったものは既に遠く、町は遠い雷の音と、降り始めた雨音とで既に満たされていた。 「……」 果たしてあれからどれだけこの裏路地でぼうっと座り込んでいたのやら。時計の類など持っていないから正確な所は解らないが、この様子からすると花火が終わったのは軽く数時間は前の事だろう。 (天気が晴天って太鼓判出したのは結野アナだったし、ひょっとしたら今回の花火大会の為に、結野衆の連中で総力上げて晴天を保ってたのかもな…) 今回の花火大会は慰霊を兼ねた政府主催の催しであったし、土方のあの忙しそうな様子やストレスを相当溜めていそうな様子から見ても、国賓も多く招かれていたに違いない。それだけ重要なイベントであれば、結野衆に依頼が行っていた事は別段おかしな話でもない。何しろ、生粋の陰陽師の家柄である彼らには、天候を数時間程度操る事ぐらい造作もない話なのだから。 そんな事を考えている内にも雨粒はどんどん勢いを増して行く。地面が完全に黒一色に塗りつぶされ、道がぬかるんであちこちに水溜まりが出来始める。 これは雨宿りなどしても無駄だなと判じた銀時は、建物の狭間で余り雨の及ばなかった裏路地から飛び出した。こう言う、瞬く間に濡れる様な雨では、多少走った所でずぶ濡れになる未来は避けられない事は知っていたが、雨の降りしきる暗い夜道を濡れ鼠になりながら歩いて戻ると言うのも気が退ける。 くそ、と気紛れさかそれとも勤勉さかを見せつける雨の中、あれだけ花火大会で賑やかな様相だったとは最早思えない程に、静かに静まりかえって仕舞っている町を銀時は駆けた。 こうしているとまるで、花火の美しさすら、町の賑やかさすら、まるで夢か嘘だったのではないかと思えてさえ来る。そんな事は無いのだとは、片付けきれていない夜店の群れの姿を見れば明白なのだが、それでも何処か、ぞっとしない様な頼りのない思いがあった。 やがて、靴音と泥の混じった飛沫を蹴散らして走る銀時の足の速度が少しだけ弛んだ。濡れた顔を拭って大きく息をつく。見慣れた町並みに出れば少しは安心出来たと認めるのは少々癪だった。 万事屋銀ちゃんと、書かれた看板を見上げる。家に灯は入っていない様だ。一方で階下のスナックには営業はしていないと知れる程度の小さな灯りが灯っている。今日は花火大会で休業だったのだが、店の主はまだ居ると言う事だろう。 (…って事は、神楽はもう寝ちまってて、ババアもそろそろ寝る時間って所か?やっぱり結構に時間が経っちまってるみてェだな…。俺どんだけ色ボケしてたんだかな…) ひょっとしたら物思いに耽っているつもりで眠ってでもいたのかも知れない。そう言えば河原でのプチ花火大会で結構にビールを空けて仕舞っていたと、今更の様に思い出す。 (……まぁ取り敢えず帰るか) こんな所でぼけっと突っ立っていても仕方がない。雨粒を振り切る様にして銀時が上階に続く外階段を数段登ったその時、からら、と音を立ててスナックの扉が開かれた。傘を開いて、お登勢が顔を出す。 「やっとお帰りかィ」 丁度庇になった所で銀時は立ち止まって、それを振り返る。 「どうも道端で酔い潰れて寝ちまってたみてーでよォ…。雨もいつの間にか降って来るしで災難だったわ」 笑って言うお登勢は、銀時の想像した通りに丁度寝る前だったのか、簡素な浴衣を纏い、いつも濃い化粧も落とされ、妙に老いて見えた。夜の、碌な灯りも無い中ではそれすらもはっきりとはしなかったが。 「アンタに伝言だよ。神楽と新八から」 凝視したかったのかそれとも背けたかったのか。銀時が眼を細めた所で、お登勢が傘を肩に預けながら言うのに、思わず間の抜けた声が出た。 「へ?ぱっつぁんはともかくとして、神楽(あいつ)、帰って無いのか?」 「浴衣も返さなきゃならないからって、今日は新八やお妙と一緒に道場に帰ったんだよ」 頷いて答えると、「で。伝言だけどね」と言った所でお登勢が少し笑った。その妖怪じみた笑みに何となく厭なものを感じた銀時は、咄嗟に顔を顰めて仕舞う。 「『フラれちゃったら銀ちゃんも来ても良いアルよ』……だ、そうだよ」 「〜あんのクソマセガキ共ォォォォォォ!!」 厭な予感は見事的中。銀時は頭を両手で抱えて思わず吼えた。矢張りプチ花火大会を抜け出した時点で既に普通に、当たり前の様に、逢い引きだと思われていたのだ。もとい、見抜かれていたのだ。 (いや実際逢い引きっつーか俺が勝手に会いにいっただけですけども!しかも良いムードに至ったのに躱されたんだけども!) それを認めるのは敗北した様で業腹だったので、銀時は飽く迄あれを、逢い引きだ、と言う事にしておこうと思った。脳内の日記帳にはそう書き付けておこうと決め込む。事実はどうであれ。 「…で、フラれてのこのこ帰って来たのかィ?」 「ババァてめぇまで何乗っかってんだ!フラれてねーから!フラれる訳ねーから!」 「アララやだねぇ、むきになっちゃって。余裕のない男は嫌われるよ」 肩を怒らせて二度目の全力咆吼に呼吸を荒らげる銀時に、あっさりとそう肩を竦めながら、お登勢。からかわれているのは承知の上だったのだが、言わずにはいられない事もあるのだ。大人の男としての沽券とか何か、色々と面倒臭いものがいちいちむずむずと騒ぎ立てる故に。 「まァとにかくそう言う訳だから。ちゃんと体拭いて風呂入ってから寝るんだよ。風邪なんか引かないようにしな」 「はぁ?知らねーの?馬鹿は風邪ひかねーんだよ」 「自慢気に言う事かィ、お馬鹿」 じゃあお休み、と手を振るお登勢の背を見送ってから、銀時は思い出した様にぶるりと背筋を震わせた。幾ら初夏の頃とは言え、ずぶ濡れでは矢張り体温は冷える。 急ぎ足で階段を駆け上がって、玄関に入る。戸を閉めれば雨音や酷い雨の気配は遠ざかったが、全身が濡れ鼠も良い所の有り様なので、どうした所で廊下を足跡を付けて歩く事は避けられなさそうだ。 (まずは風呂湧かすか…) 玄関に腰を下ろしてブーツを脱ぎ捨てる。防水だし頑丈なつくりをしたそれは、中まで水を染み込ませてはいなかったが、他が濡れていれば同じ事だ。続けて帯を解き、濡れて重たい着流しから何とか袖を抜いて肩から羽織った状態にして、裾をまとめて持ち上げる。そうやって床や壁に水が滴らない様に苦心しながら、銀時は風呂場の火を点けた。 (土方は来れっかなぁ…。警護の任務とか言ってたし、こう言ういきなりの雨とか、警護対象のスケジュールに影響が出ると仕事にしわ寄せが出て、うちに来るって約束は無理かも知れねェよなぁ…) 濡れた着流しを洗濯機に放り込みながら、銀時は大きく溜息を吐く。相手の職業柄こう言った事は珍しくもない様な事なのだろうが、得も知れない飢餓感を妙に実感して仕舞った後では、叶わないと言う事はダメージが大きいのかも知れない。 (歳ばっかくってからガキみてーな恋愛始めると、拗らせるとは良く言うけどよ…) ふう、とひねた調子で大袈裟に肩を落としながら、銀時はこちらもまたびしょ濡れのインナーを苦労して脱いだ。タオルを肩から掛けて体を拭いつつ、雑巾を片手に廊下へと戻る。 外では雨音がまだ続いている。殆ど暗闇の玄関にぽいと無造作に乾いた雑巾を投げて、自分で作った足跡や水滴を銀時が拭っていると、不意に外の階段を駆け上がる足音が聞こえて来た。 重たい靴音は階下の住人のそれや、身軽な神楽や新八のそれではない。 階段を上がると軒に入る。だからか、足音はそこで速度を弛めて、こつこつと、硬い靴の響きを引き連れて近づいて来る。 「……マジでか」 思わず呻いて立ち上がった銀時が三和土に裸足で降りるのとほぼ同時に、玄関の磨り硝子の向こうに黒い人影が映り込む。 直感──否、確信する。ひょっとしたら叶わぬかも知れないと思ったものが、然し違えず叶った事を。その僥倖を。 から、と戸が引かれた。そこに居たのは紛れもなく土方だ。黒い隊服と髪と、両方をしっとりと雨に濡らされた彼は、戸を開けた目の前に立っていた銀時の姿に眼を丸くする。 眼と同じ様にぽかんと開かれた口が疑問か挨拶かはたまた、兎に角何かを紡ぐのを待たずに手を引っ張れば、彼はたたらを踏みながら玄関の内側へと転がり込んで来る。 「んだ、てめぇ起きて……、って言うか何だそのだらしねぇ格好は」 流石に驚いたのか、転びそうになった所を銀時に支えられる形になった土方であったが、びしょ濡れの挙げ句に上半身にタオルしか掛けていない銀時の様子をまじまじと見るなり、呆れた様な表情と共にそんな言葉を投げて寄越した。 「いやあ、帰りに雨に降られてこの様だよ」 銀時が自分の欠点と認知している事として、もさもさの天然パーマと言う要素がある。だが、日頃は収まり悪く好き放題に跳ね回る癖っ毛も、風呂や雨で濡れた直後だけは大人しい。その、僅か一時だけ格好のつく髪をぐしゃりと掻き上げる事で、銀時はさりげなくその事実を強調しながら言うのだが、土方の眼は胡乱に細められた侭だった。 「……雨が降るまで何処で飲んだくれてた?」 「何で泥酔してる事前提みてーな感じなの?!」 違うから、と吼える銀時を「はいはい解った」とお座なりな調子でいなすと、土方は背を震わせる様な動きと共に、ぶ厚い隊服越しに両腕をさすってみせる。 「こちとら撤収作業中に降られてな。まぁ結果的に予定が変わって警護の時間が切り上げになってくれた訳なんだが、幾ら夏ったって流石に寒ィんだよいい加減」 「……」 着替えてくれば良かったのに、などと言うのはきっと野暮なのだろうと思った。銀時は濡れ鼠で向かい合う互いに向けて喉を鳴らして笑うと、濡れて重たい気のする土方の上着の背に触れた。恭しい仕草で腕を取って、袖から腕を抜くのを手伝ってやる。 流石に実用性重視の服なだけあって撥水加工が効いているのか、表面の水滴は殆どがぱらぱらと落ちて行き、服の下まで酷く濡れて仕舞って居る様子は無い。 「そろそろ風呂も湧く頃だし?折角だからご一緒していっちゃう?」 戯けた様に紡ぐ言葉の端には、こぼれ落ちそうな白々しさが漂っていたとは思うのだが、少し俯いた土方が玄関の履き物の数を数えているのは解った。 だから、頷きが返るのなど待たずに、濡れた身体を引き寄せ促した。 。 ← : → |