風雨臥し聽くその夜闌けに / 12



 知ってはいたが、相変わらず狭い。木製の風呂椅子に腰を下ろした土方は、楽にしようにもすぐ障害物にぶつかって仕舞う足を持て余し、背を丸めて頬杖をついていた。
 その背中を泡だらけのスポンジが上下している。土方はタオルで固形石鹸を泡立てると言う、少々古風なスタイルで体を洗う──土方に限らず真選組の連中は大体がそんなものだ──のだが、こっちの方が断然楽だろと言って憚らない銀時は、泡立ち易い材質で出来たスポンジに、ボディソープを使っている。
 そのスポンジが、土方の背中を丁寧に洗っている。余り力が加わっていない所為で、単に泡を擦り付けているだけにしか思えないと言うのが正しい所であったが。
 「お痒い所はございませんかァ?」
 「それ、頭の時に言うやつだろ。別に痒くねェし痛くもねェ」
 スポンジを動かす手の主の存在を意識したくなくて、掛けられた戯けた調子の声に、土方はついとそっぽを向いた。
 狭い風呂の中は、人並みよりガタイの良い成人男性を同時に二人も押し込む様な所ではない。況して二人とも座ったり膝をついたりして横幅の嵩が増している。結果、銀時は土方のほぼすぐ背後、密着しそうな距離でその背中を洗っていると言う訳である。
 「まぁそりゃァ、気は遣ってますしね?万が一にでも真選組の副長サンの大事なお背中に、傷とかつける訳にゃいかねェだろ」
 「……普段どんだけ雑に洗ってるんだよ」
 陽気な調子で笑い声を立てる銀時に、付き合い程度の気持ちで小さく笑いながら、その愛すべき単純さに少しだけ苛立ちを憶えた。
 狭い浴室には特に見回せる風景もない。あるものはと言えば、揃って並んだシャンプーの類のボトルに、タオル掛けにピンク色の可愛らしいスポンジが下がっているぐらいだ。恐らく神楽のものだろう。
 「江戸に来る前は、ヘチマとか使ってた口だぞ。そんな柔な背中じゃねーわ」
 「でもよ、柔らかい肌触りの方が良いだろ?固かったり痛かったりするよりは」
 ふん、と息を吐いて言えば、ひたりと銀時の掌が背中に触れた。反射的に背が跳ねるが、気付かなかったふりをしてくれたのか、そこには踏み込まずに彼はただ笑うのみだった。
 「……まぁ、そりゃあ」
 そこにも、この間までは無かった様な気のする、慕わしさ、気安さ、馴れ馴れしさ──要するに余裕の様なものを感じ取って仕舞った気がして、土方は肩を竦めた。
 まだ付き合いと言う名前で呼べる関係に至ってから、それ程に時は重ねていない。それだと言うのに、自分は何か変わっただろうか。変われたのだろうか。銀時が不器用に花火見物へ誘いの言葉を寄越したりするのを、どう言う目で見れば良いのか、正直を言えばまだよく解らないのだ。
 慣れる、と言ったが。慣れよう、と思ったが。土方の身体も言葉も不器用で足りない侭で、宣言した目標通りにきっとまだ至れてなどいない。
 時代も人もその間柄もめまぐるしく変化して、その中に取り残されて行きそうな危うい不安さえ覚える。それをして臆病であると嘲ると言う訳ではないのだが、損な性分なのだろうと己でも思う。
 「っ!」
 ふと思考が宙に浮きかけたその時、背中に勢いよくお湯をぶち撒けられて、土方は目を白黒させた、背中と言うより頭の上から思い切り降って来たらしく、飛んできた泡が口に入った。苦みともえぐみともつかぬ石鹸の匂いに思わず咳き込む。
 「ほい、背中終了」
 「〜〜ってめぇえ…」
 軽い言葉に振り返る。油断していた土方の頭から、その手にした桶でお湯を思い切り浴びせて来た下手人の正体は言うまでもない。口内にまだ石鹸の匂いが残っている気がして、舌を出して咽せながら土方は銀時を睨み上げた。
 「前はどうする?自分で洗う?それとも洗わせてくれちゃう?」
 「……」
 くねくねと、態とらしく嫌らしい手つきをして言う銀時の手から無言でスポンジを取り上げると、土方は黙々とスポンジを揉んだ。泡がふわふわと湧き出て来る光景は存外に面白い。
 左腕から洗い始めると、銀時の手が再び背中に触れた。今度は辛うじて驚かずに済んだが、洗う手が思わず止まって仕舞う。
 「いやね?驚かせたのは悪ィとは思うけどよ、今のはおめーも悪いかんな?」
 「何が…」
 「さっきから上の空じゃねぇか。そりゃ風呂入ったのは温まる目的な訳だけどよ、さっきがさっきな訳で、全く色っぽい展開を期待していなかった訳でも無い訳でしてー……、って何言ってんだ俺ァ」
 早口でぶつぶつとこぼすと銀時は、今は濡れて大人しい髪を耳の横から掻いて溜息を吐く。肩を落として、妙に切実な様子で。
 「まぁ下心はさておいて、こんだけ近くに二人きりで居んだから、仕事の事ぐらいは忘れてこっちに集中して下さると有り難い事山の如しって昔信玄公が言ったとか何とか…」
 「………」
 よもや喧嘩になるとはもう全く思ってはいなかったのだが、少し辛辣な調子で責められる気構えをついして仕舞った土方は、拍子抜けした。堪えきれずに噴き出す。
 「……今の何処に笑う要素があったのか教えてくれると銀さん嬉しいなぁ」
 肩を震わせて俯いた土方に、暫し銀時は唖然とした様子でいたが、やがて憤りと言う結論に至ったらしい。引き攣った笑いを浮かべて言う彼を振り向いて、土方はかぶりを振った。
 「いや、すまねェとは思うんだが、思いの外にお互い下らねぇ事考えてたのかと思うと、何だか情けなくなったり笑えて来たりしちまった」
 「…?」
 手を伸ばした土方は、未だ少し憮然としている銀時の頭をぽんぽんと撫でた。いつもの様にふわふわとした優しい手触りは返って来ないが、困った様に寄った眉はよく見える。
 「あと、仕事の事なんざもう考えてねェよ。四六時中俺が考えてなきゃなんねェ程忙しくもねぇし、頼りねぇ連中ばかりでもねェからな」
 笑ってそう言い切ってやると、銀時は漸く自分の考えが的外れであったと言う事に至ったのか、少し気まずげな顔をしたものの、直ぐにその表情を切り替えた。
 「それ惚気?」
 「……かもな?」
 目を細めた銀時の裡に不意に浮かんだ感情は、甘さとも苦さともつかない。僅かに混じった成分は嫉妬と呼ばれるものだろうが、この程度なら流せるだろうものを、然し銀時は掴んだ侭にする事を選んだらしい。目元が剣呑に細められる。
 土方が不器用な仕草で目をそっと伏せると、自分の手が握った侭でいたスポンジが、銀時の手によって抜き取られて放り棄てられた。先頃背中に触れただけの手が、今度は肩から首をなぞって頬までを辿るのを何処か遠くの事の様に感じながら、その手に促される侭に顎を擡げた。
 花火の狭間に空いた、僅かの空隙よりも解き放たれた間隔の中で、流れる様な動作で唇が触れ合う。餓えた獣の前に供された肉の様だと思いながら、土方は深い口接けを受け入れて、そこからもたらされる際限のない歓喜に背筋をぶるりと震わせた。
 狭い浴室で一体何をやっているのだか、と、まだ冷静さをどこかに残した己が囁くのが聞こえた気がしたが、湯気に煙る視界の中に唸る様な銀色の獣の姿を見たら、それだけでもうどうでもよくなって仕舞った。
 
 *
 
 拓かれて、繋がれて、揺さぶられて。縋りつきながらただただ翻弄される。慣れると言った所で易々慣れるものでもない行為はいつでも嵐の様な激しさがあって、土方はただただそれに流されない様にするので精一杯だった。
 風呂場の床はタイル張りで固いからマットが敷いてある。だが、矢張り狭さが問題であった。床に背中を預けて仕舞えば、なかなか思う様には動けない。
 そこで銀時に促される侭に、土方は座した彼に座りこむ様な形で身を繋がれた。相変わらず不器用で固いばかりの身体を銀時は辛抱強くほぐして馴らして、宥めながら抱く。
 「っう、あ、あぁ、うぁ、」
 「もうちょい、力抜け…、動き難ぇから」
 揺さぶられながら土方は、銀時の首に両腕を回しながらかぶりを振る。力を抜こうにもどこもかしこも強張っていてどうにもならない。銀時の息遣いも苦しそうで申し訳ないとは思うのだが、何とか出来る器用さがあったらとっくに何とかしている。
 「……まぁ、これはこれで…、悪いって訳でもねェんだけど…」
 銀さんもっとガンガン腰振って啼き喚かせてェタイプなんだよね、と至近にある土方の耳元で吐息と共にそんな事を囁かれて、背筋が粟立つ。そこを狙い澄まされた様に腰を引き寄せられて、両足が完全に宙に浮いた。落ちる、と思って咄嗟に銀時の背に全身でしがみつく。途端に走った衝撃に、腹が破けるのではないかと錯覚して涙がこぼれた。
 「…よ、ろずや…っ、む、むり…ッ、しぬ…、」
 腹の裡一杯になった、熱い楔だけが接点であって、支点。土方はひくりと喉を鳴らして、そこに確かに蟠っていく熱に喘いだ。もう何もかもが己の意にならない。それが怖いが、快くもある。だがその齟齬へ至る理解はまだ遠くて掴めそうもなく、どうしようもなくなって目の前の銀時に必死で縋りついた。
 「っ…よろ、ずや、ぁあっ、あぅ、あ…」
 「土方、」
 呼ばれて、力が抜ける。目を開いて腕の力を少し抜けば、驚く程に目の前に、見慣れた男の、見慣れない表情があった。今初めて知った驚きを憶えた様に、胸郭の内側でどくりと心臓が鼓動を打つ。
 「んんっ…」
 その侭噛み付く様に口接けられ、同時に抱えた臀部を突き上げ、揺すられる。酸素も思考も足りない頭が、そのぼんやりとしたはっきりとしない熱と感覚とを、気持ちの良い事なのだと勝手に憶えて行く。
 それでも、そんなものでも、少しずつは変わっていけていると言うのだろうか。ここでは流されて溺れるばかりでしかない思考を赦しても良いのだろうか。
 よろずや、と切れ切れの呼吸の中で呼ぶのと同時に、腰の深い所から噴き出す様な快楽を憶えて、土方は悲鳴の様な声をこぼしながら達した。





完ッ全に蛇足入ったとしか…。

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