風雨臥し聽くその夜闌けに / 13 吸って吐いた空気は、醒める前と殆ど変わらない。依然として湿度は高くて気温も高いから、肺に溜めた空気はまるで粘りつく様な重たい感触がする。 そこに加えて全身にのし掛かる様な怠さが消えない。泥の中でも泳いでいる様な不快感と不自由さとから少しでも逃れたくて、銀時は寝返りを打った。 雨の音は未だ続いている。ぱたぱたと打つ軒先からの雨だれの間隔も大分早い。雨樋のゴミを最近取った憶えは無かったから、排水の状況は余り良くはないのかも知れない。 晴れたら掃除をした方が良いだろうか。どうせ冬になればまた枯れ葉が沢山詰まるのだろうが、未だ晩秋までは遠い。雨の日は何度も訪れる。思い切って掃除をしても損は無い筈だ。ただ、ちょっとばかり面倒なだけで、それが最大の問題なのだが。 (…そう言や、窓開いてたんじゃ) つらつらと考える内にそう至り目をぱちりと開いて仰向けの侭窓を見るが、いつの間に閉めたのか窓はぴたりと閉ざされていた。空気の流れを失って揺れなくなた風鈴がどこか所在無さげに吊り下がって、眠る銀時を見下ろしている。 「……」 そもそも窓は本当に開いていたのか。それとも気の所為だったのか。布団の中で小さく唸ると、銀時は目蓋を下ろした。とにかく怠くて、油断をすると直ぐに眠りの使者が枕元に座り込む。完全に絵に描いた様な風邪なのは解るのだが、こうまでずっと眠り込んで居ても果たして良いものなのか。子供でもあるまいし。 うとうとと微睡んでは醒める、その繰り返しに時間も記憶も遅々として進まない。どこまでが夢でどこまでが明瞭な記憶なのか。現実はあるのか。問いかけに答える意識ですら定かではない。 風鈴。雨。花火。また雨。そして今もまた、雨。 窓を閉めたのは誰なのだろうか。新八か、神楽か、それとも。 寄せた眉の下で無理矢理に再び目を開く。悪天も手伝って室内はほぼ真っ暗と言える程に暗い。窓の外の明るさを見ても、時間も恐らくは昼をとうに過ぎて日没頃かそれ以降だ。銀時は寝転んだ侭視線を動かすが、時計は丁度、見える位置には置いていない。億劫だと思いながらも、泥の詰まった袋の様に重たい上体を何とか起こす。 「…ん?」 湿気に満ちた部屋に、何やら嗅ぎ慣れない匂いを感じて、銀時は頭をゆっくりと巡らせた。畳でも雨でも湿気た布団でもない。もっと自然のありふれた匂いだ。 やがて、薄暗い部屋の片隅、窓辺の丁度陰辺りにぽつりと置かれた、鉢植えが目に入る。竹で出来た行燈支柱の立てられたそれは、蔓をくるくると踊らせた朝顔らしきものの鉢植えだった。透明なビニールが一升瓶でも包む時の様に掛けられているそれは、如何にも買って来ましたと言う風情を漂わせながらそこにどんと鎮座している。 当然だが見慣れのしない物体に、銀時の眉が自然と寄っていく。 「起きたか」 ぐるぐると思考を巡らせ、そこに朝顔らしき鉢植えの置いてある理由を必死に考えていた銀時は、不意にそんな声を掛けられた。振り向けば、居間との間の襖を開いて、土方が寝室に入って来たところに出会う。同時に疑問の解答の半分ぐらいは得た気がして、自然と気分が上向いた。 「窓閉めてくれたの、お前?」 それは真っ先に放つ問いとしては少々間の抜けたものであった筈なのだが、土方には特に何も咎める気は無かったらしい。それとも病人相手にああだこうだと言っても仕方がないと思ったのか、彼は枕元に座ると胡座をかいた。 「外は土砂降りだってのに窓開けっぱなしでアホ面して寝てやがったからな。吹き込んでなかったのは幸いだったな」 言う土方の格好はと言えば、いつもの黒い隊服の、上着だけが無い姿だ。つまりは仕事中か、帰る途中と言った所なのだろう。そうなると現在の時間も、夕方頃と言う銀時の大体の予想通りだ。 立ち寄って、窓を閉めて。そして多分に朝顔の鉢を置いた。 「…で、その鉢植えは?」 重い頭痛の狭間をこじ開ける様にして問う銀時に、土方はさも「大丈夫かこいつ」と言いたげな表情を解り易くその面相に浮かべてみせた。 「見りゃ解んだろ。朝顔だ。朝顔市で安かったから何となく買って来た。見舞いにと」 「いや、朝顔なのも、買って来たのも解るんだけどね?普通病人の見舞いに鉢植えって持って来ねぇだろ。そもそも朝顔って家の中に置くもんじゃねぇし」 「……そうだったか?」 どこか得意げにしていた顔をきょとんとさせて、土方は顎に手の甲をやって小さく呻いた。銀時は、時々抜けたところのある情人のそんな姿に小さく噴き出すと「まぁ見舞いってのは気持ちだからね」と少し口早に言い添えた。落ち込ませるのは本意ではない。 「つーか、見舞い?」 銀時が具合が悪いと感じていたのは今日の朝からだった筈である。土方は果たしてどこからその情報を聞き付けたのだろうか。思った侭に疑問符を浮かべれば、銀時のそんな視線の先で土方は突然真顔になった。黙っていれば文句無しに整った顔の形作った真摯な表情に、胸の奥がどきりと跳ねる。 「いや。会いたかったから来た」 「えっマジでおま、」 「…とでも言えば満足か?」 真顔の侭でそう言い抜けた土方の姿に、銀時は己が脚をかけていた梯子が蹴り倒される様な光景を見て仕舞った気がして、力無く笑う。若干引き攣っている自覚もあった。 「……おめー本当なぁ…、…いや何でもねぇわ」 土方は真顔を消すと暫くの間、悪戯に成功した子供の様に目を細めて笑っていたが、やがて小さく息を吐いた。 「まぁ見舞いは見舞いだから良いだろ。階下のバーさんから聞いたんだよ」 「………〜面倒看てやれとか、ひょっとして言われた?」 成程どうやら土方の奇妙なこの『お見舞い』の理由の正体は階下の大家らしい。それはいいとして、子供らに続いて大家までもが遂に銀時の恋愛事情に首を突っ込み始めたのかと思えば少々げんなりとするものがある。思わず口端が下がった。 すると土方は銀時の予想に対してそっとかぶりを振った。 「いや。昨日も店でただ酒かっ喰らってやがったけど、声ががらがらだったから、馬鹿の癖に風邪でもひいたんじゃないかって言うんでな。伝染るから近づかねぇ方が良いとかって」 「……何おめーら人の心配してんの?それとも仲良く死体蹴ってんの?」 お登勢の呆れた様な声までもが聞こえて来た気がして呻くが、然し土方は人差し指を丸めるとそんな銀時の額をびしりと弾いた。 「心配してるに決まってんだろうが。本物の馬鹿かてめぇは」 「………痛み入ります」 どうにも考えていた様なからかわれる流れでは無かった様で──少なくとも土方にとっては、だが──、気まずさの中にぽつりとそうこぼすと、銀時は両肩を落とした。落ち込んだのではなく、単に脱力を禁じ得なかっただけだ。ついでに言うといよいよ怠さが身に染みている。 そんな銀時の様子をちらと見た土方は、自分で持って来たらしい朝顔の鉢植えの方に手を伸ばした。鉢植えの陰になっていて見えなかったが、そこにはもう一つ、コンビニかスーパーのものらしいビニール袋が置いてあった様だ。 その中身を軽くまさぐると、土方は取り出した固い物体を銀時に向けて放って寄越した。直接受け取らせる気は端から無かった様で、その物体は銀時の手から少し離れた、布団の上にぼすりと重たい音を立てて落ちる。 「…何これ」 怠い手を伸ばして円筒形のそれを指にひっかけると、ころんと少しの距離を転がって止まる。金属の缶に、余り食欲をそそられない様な桃の写真のラベルが巻いてある。いわゆる缶詰。桃缶と言うやつだ。 「それも見りゃ解るだろ。見舞いだ。その調子だとどうせ碌に飯も食ってねぇんだろ。寝てりゃ治るとか言ってねぇで、せめて水分は摂れ。自己管理ぐらいしっかりしやがれ」 「あんまおめーにだけは言われたくねぇやつだけどなそれ。まぁいいや、ありがとさん」 土方がこんな風に臥したりしたら、それこそ銀時よりもっと酷い気がする。寝てりゃ治るの古くさい精神どころか、仕事してりゃ治ると言うとんでもない精神論で克服しそうである。 勝手な想像に頬を弛めつつ、転がって来た缶詰を掌の上でひっくり返すが、その表面には何の出っ張りも引っ込みもない。缶切りの要るタイプだ。仕方無いと、溜息をついて銀時は立ち上がった。億劫ではあったが、そろそろ厠にぐらいは行っておいた方が良さそうだし、もののついでだ。 「じゃ、折角だし早速頂くな」 「おう」 『お見舞い』を渡してすっきりしたのか、缶詰片手に立ち上がった銀時を余所に、土方はその侭座っている。少し逸らした横顔は心なし照れている様に見えなくもない。指摘すると手酷い反論を喰らいそうな気がしたので、浮かんだ感想は胸に仕舞って何も言わずにおく事にした。 然し、仮にもお見舞いと抜かすのであれば、せめて缶ぐらい開けて持って来て欲しかった所ではあるのだが──、 (…いや待てよ。そもそも缶詰の開け方すら知らねぇ可能性もあるな。下手に開けて欲しいとか頼んだ日には、刀で斬ろうとかしかねねェかも) 浮かんだ妙に具体的な想像を振り払って、銀時は寝室を出た。湿気た空気の所為で、裸足で踏みしめる床がぺたりと貼り付く様な音を立てる。怠くて何もしたくなどないと思っていたが、実際起きて動き出してみれば、それ程でも無さそうだ。矢張り病は気からと言う事なのか。 掌の中の缶詰をちらと見れば小さく笑みがこぼれる。好きな男が来てくれただけで元気になった気がするなどと言ったら、盛大に笑われそうだ。 メタセルフなツッコミして仕舞いましたが、夏風邪状態が「現在」です一応…。 ← : → |