風雨臥し聽くその夜闌けに / 15 つい習慣で手が胸ポケットを探ろうとしている事に気付いて、土方は大袈裟な動作でそれを止めた。落ち着きのない右手を捕まえて溜息を吐きつつ、動作を誤魔化す様に腕を組む。 以前よりは控える様になったとは言っても、喫煙の習慣と言うのはなかなか身から抜けるものではない。手持ち無沙汰になったり、口寂しくなったりすると、聞き分けのない手はまず無意識に煙草を探ろうとする。 いっそ持ち歩かない──と言う程に禁煙に成功はしていない。土方からすれば、日がな一日次から次に煙草を咥えチェーンスモーカーをしていた頃と比べて、その半分以下にまで喫煙量が減っているのだから、充分に奮闘していると言える。これ以上の成果をそう性急に求めた所で仕方あるまい。 すっかりと、定期的にヤニを吸わないと落ち着かない体質になって仕舞った。そもそもにして、江戸に来て溜まる様になったストレスの負荷をヤニか斬り合いかに肩代わりさせ続けたのが間違いであったのかも知れない。 あの頃は忙しさと、侍と言う新たな生活に慣れねばならぬと言う気負いと、組織運営を円滑に進める手段の模索とで、周りをゆっくり見たり、煙草以外のものを探そうなどと言う気は到底沸かなかった。その事を少しだけ、勿体無かったのかも知れないとは思うが、全ては今更の事だ。 (それに、例えば万事屋ともっとずっと以前に会ってた所で、多分互いに何も変わってた気はしねェしな) 眼前。布団に顎先まで埋めて穏やかな寝息を立てている銀時の姿を見て、土方は我知らずそっと微笑してから、にやけた顔になっているのではないかと気付いて慌てて顔を顰める。 きっと、出会ったのが一年前だろうが十年前だろうが、『こう』なる現状に至るまでは、何一つ変わらないのだろうと思う。恋だったのだろうと言う未練をみっともなく吐き溢しでもしなければ、互いに距離を詰めて仕舞おうなどとは思わなかったに違いない。 (……馬鹿面) 風邪も大分マシになって来たのか、臥せる銀時はもう寝苦しそうにはしていない。ぐう、といびきになり損ねた様な音が鼻で鳴るのに、摘んでやろうかと悪戯心がつい湧くが、病人にイヤガラセをする程人間性は駄目にはなっていない。 夢でも見ているのか、むぐむぐと口を動かす銀時に向けて、額を弾く様な仕草だけをすると、土方は小卓の上に置かれた目覚まし時計を見遣った。もう時間も良い頃合いだ。 (寝るまでは居るって言ったしな。寝たし。問題無し、と) 己の発言を思い起こしつつ、嘘は決して言っていない事を再三確認してから、土方は音を立てずに立ち上がった。慎重に襖を開け閉めし、居間のソファに置いてあった上着と刀とを碌に見もせずに手に取った。玄関まで行ってから素早く身支度を整え、靴を履く。 外はまだ雨がしとしとと降っている。大分勢いは弱まっているから、恐らく朝までには上がっているだろう。気温が上がって湿気の気になる季節になって来たかと思いながら、傘立てに突っ込まずに玄関に立てかけておいた、持参の傘を持つと戸を静かに、静かに、開く。 ぽたんぱたんと、溜まった雨粒が電線から滴り、屋根瓦を叩き、軒を伝って落ちていく音がした。雨そのものが降り積む音は大分小さい、殆ど霧雨だ。だが、傘を開かずに歩くのも躊躇う。その程度の微妙な降雨だった。 「……」 土方は、傘をさすのは本来余り好きではない。万一の襲撃を、不意打ちの様に受けた時には、傘一本を持っているだけでも危険になる。傘を放り捨てて刀を抜く、そんな動作は直ぐには行えない。傘で刀を迎撃するのは無鉄砲だし、視界を遮るから余計に危ないだけだ。 おまけに、警察として、両手を出来る限り開けておくと言う決まりもあって、少なくとも隊服姿で傘をさす様な事は滅多に無いのだ。傘が不要になる様にと、隊服には撥水加工が施されているし、雨天時の警備などに際して用いる透明なレインコートなども支給されている。 だが、それらの装備があったとしても、勿論だが全く濡れない訳ではない。だからこうして、レインコートなど着ていない身の今日はつい傘を持って来て仕舞った。行きは急ぎ足だったし、まだ多少は日の明るさもあって物騒な事を想起する様な事はまるで無かったのだが。お陰で殆ど濡れずに万事屋まで来る事が出来た訳なのだが。……なのだが。 「………」 まぁいいかと結論にはあっさり至り、土方は傘を差すと外に出た。 一昔前とは違うのだ。街も、人も、随分と平和を謳歌しているし、土方が攘夷浪士の恨み辛みで命を狙われると言う事もめっきりと減った。一時期は「副長が一人で出歩くと辻斬り犯の死体が増える」などと顔を顰められる程に世の中は物騒だったと言うのに。 (いつまでも、前時代的な事ばっか抜かしてても、な) ありもしない危険を想定して、差さない傘を片手に、濡れ鼠になって帰るのは馬鹿馬鹿しい。 雨は霧の様に、街灯の照らす風景をぼやりと曖昧な輪郭で描いている。どこかふわふわとした夜の街は常の賑わいとは程遠いが、静かで良い。 水溜まりを踏んで、土方は不意に足を止める。襲撃の気配を感じた訳ではない。あの斬り合い寸前特有の、ぴりぴりとした鋭い殺意は、平和な街の何処からも感じ取る事が叶わない。 「……………」 然し土方の足は止まっている。何か、何かがざわめく様な、落ち着かない様な、奇妙な心地が足を重くさせ、這い上がって喉奥まで来ていて、酷く苦しい。 (……っ、ああクソが、) 思わず唇を噛み、かぶりを振ると、土方は脇道へと逃げる様に入った。みっともない動揺の正体に気付いて仕舞えば、頭を抱えるか呆れるかぐらいしか取れる手段がない。流石に叫んだり泣いたりと言った癇癪は起こさないが、冷静に、客観的な意識を持ちたくて、胸ポケットの煙草を探る。 今度は目の前に病人がいる訳ではないから、吸うに躊躇う理由もない。……のだが。 「……あれ?」 思わず間の抜けた声が出た。土方は胸ポケットを上着の上からぽんぽんと叩き、そこに目当ての感触が無い事に困惑した。腰の左右。尻。あらゆる収納を確認してから、はっと気付いて頭を抱える。 (馬鹿か、馬鹿か俺ァ……!) 本気で頭をそこらの壁に打ち付けたい気持ちであった。浮かれたり動揺したりで、つまらない事を──まるで無意識に望んでいたかの様に──やらかすとは。 先頃煙草を吸っていた時に、窓辺に置いたそれきりだった。恐らくそうだ。銀時に手招かれて桃を食わされたりしている内に、その侭回収するのを忘れて仕舞ったに違いない。 まるで、言い訳の様だ。 思えば顔が熱くなって、土方は「畜生」と幾度も呻いて、のろのろとした動作で携帯電話を取りだした。手慣れた操作で、山崎宛に発信し、耳に当てて溜息をひとつ。 《もしもし?》 「俺だ」 《解っとります。で、どうしたんです?酔って迎えが欲しいとかですか?》 時間帯から判断したのだろう、聡く提案を寄越す山崎に「いや」と短く言い置いて、土方は深い溜息をついた。息を吐くその延長線でこぼす。 「今日はこの侭上がる。外泊届け、出しといてくれ」 仕事は机の上に積みっぱなしだ。持ち帰り残業などいつもの事なので、いつも通りに夜の内に片付けると、そう予め言ってあった。だから、山崎にその事をもしも問われたら、「明日何とかする」と返すつもりであった。 だが、土方のそんな予想に反して、山崎はあっさりと承諾の言葉を投げて来た。 《解りました。届けはちゃんと出しときますんで。副長も偶にはゆっくりして来て下さい》 「………そう、ゆっくり出来る様になりゃ良いんだがな」 まるで、どこで、誰と外泊をするのか──それをも見抜かれた気がして、土方はふんと態とらしい悪態を投げて、電話を切った。 「……」 あの何かと無駄に聡い監察が、土方の最近の生活の変化に気付いていない道理はない。別に沖田の様に揶揄を投げたりする訳ではないから、特に土方も「お前気付いてるの?」と指摘する気はないのだが、何となく、知っていても見守られている様な、背筋が痒くなる様な感じはあるのだ。 ち、と舌打ちをすると携帯電話を閉じてポケットに仕舞い込む。土方はこんな時に気を紛らわしてくれるヤニの不在に、心底うんざりとする心地を噛み締めた。 果たして後ろ髪を引かれたのか、それとも煙草を忘れたとどこかで解っていたのか。己の本心かはたまた無意識かが、どちらに作用して仕舞ったのかはよく解らない。 土方は脇道を元来た方へ戻って行く。雨は弱いが、足下はぬかるんで重たい。足取りは急く癖に緩慢だ。先頃思った通りに、朝に帰る頃には雨は上がっているだろうから、傘など朝帰りだと言う事を表す代物にしかなるまい。 。 ← : → |