風雨臥し聽くその夜闌けに / 16 つい先程降りて来たばかりの階段を上る足取りは、自分で思っていた以上に重たかった。 では果たして、道に足を縫い止めて仕舞った、あの気の迷いとしか言い様の無い様な感覚は何であったと言うのだろうか。引かれた後ろ髪、時間の惜しさ、乞う何らかの感情、思い出して仕舞った一抹の寂しさ──そう言った、説明のつかぬ心の裡の澱に嵩んだものたち。 普段は大人の意識や常識的な義務感などで抑圧しているはずの、恐らくはそんなものの所為で、土方は今、万事屋の外階段を重たい足取りで上っている。先頃いつも通りに降りたばかりの一段一段を、今度はゆっくりと。 帰ろうとしたら重くなって、戻ろうとしても重くなる。全く、己の足は、それを動かす脳は、紡ぐ感情は一体どうなって仕舞ったと言うのか。どう言う料簡なのか。 珍しくさした傘のお陰で濡れていない肩をそっと上下させて、土方は階段を上り終える。考え事すらまとめるに値しない短い距離だ。厚い靴底の立てる足音をいやに響かせる、全く厭な通り道だ。 傘をそっと畳んで水分を払った所で、土方は閉ざされた玄関戸の隙間、取っ手の付近に何かが挟んである事に気付いた。先程自分が出た時から挟んであった筈は無い。そうしたら開け閉めした時に落ちている筈だ。 仮に、挟んであるものが周到に糊付けされて落ちない様になっていたとして、今度は挟んである事そのものに気付いていた筈である。 眉を寄せた土方は、それに顔を近づけてみた。どうやらその正体は小さな紙片だ。レシートより少し大きいぐらいの紙切れが、二つに折って挟んである。取っ手の近くと言う事は、誰かがこの戸を開ける時に確実に気付く様にと配慮したのだろう。 「……」 扉を開けかけた土方はそこで寸時躊躇った。この紙片が挟まれたのは、土方が先頃この家を後にして、今戻るまでの十分少々の間に差し入れられたものに相違ない。そして、その目的は明らかに、この家の戸を開けようとする者へ向けたものだ。もっとはっきりと意味を考えるのであれば、家人へ向けたものと言って良いだろう。 偶然かどうかは解らないが、土方が立ち去った後に挟まれたものであれば、この紙片は土方にその存在を知られる事を望まれているとは思えない。 気にせず紙片を見て仕舞う。 紙片に知らぬ素振りで、家に入って再びそれを挟み直しておく。 矢張り万事屋に戻るのを諦めて屯所に帰る。 「…………」 浮かんだ考えの幾つかに対して喉奥で唸ってから、土方は、ままよ、と紙片を引き抜いた。どの途見て仕舞った以上は知らぬ素振りをするのは余りに態とらしすぎる。それに、本当に家人以外の誰にも見られぬ事を望んだものであれば、こんな所に無造作に挟んだりはすまい。 言い訳がましい、と思いながらも、土方は二つに折られた紙片を開いた。そして拍子抜けする。そこにはボールペンか何かで走り書きされた綺麗な筆跡で、たった一言だけ。 『ポストに見舞いを入れといたよ 大家より』 そう、簡潔に過ぎる文字が刻まれていた。 大家と言えば、階下のお登勢の事だろう。この筆跡も、領収書を切って貰った時に見覚えがある気がする。 「……」 紙片を指の間で二つに折り直した土方は、書かれていた通りのポストへと視線をやった。玄関のすぐ横にあるが、殆どその役割を成していなさそうな、古びたボックス型のものだ。錆び付いて軋むその蓋をそっと開いてみれば、中には白いビニール袋が無造作に入れられている。 持ち上げてみれば結構重量があった。その中身はと言えば、少し歪な形をした林檎だった。それが、四つ。 (……成程。見舞い、と) 指の中で折りたたまれた紙片をちらと見て、土方は溜息にも安堵にもならない様な息を吐いた。それは、身構えてみただけ馬鹿馬鹿しかったと言う思いと、万事屋の内に勝手に踏み込んで仕舞った様な、後悔に似たものとがブレンドされた、酷く複雑で持て余すばかりの感情を表すにも、恐らくは足りていないものだった。 ポストを元通り閉めると、土方は相変わらず無施錠の戸をそっと開いた。三和土の靴の数は変わっていない。暑苦しそうなブーツが一揃えだけ。他には誰もいない。臥した住人の他には、誰も。 「………どうせ、馬鹿面晒した侭、寝てやがるんだろうが」 そうこぼすのと同時に、後ろ髪を引いた理由の一端が、気の迷い以上の答えが、寸時見えて仕舞った気がしたが、それには気付かない素振りをして土方は玄関戸を閉めた。湿った傘を傘立てにそっと入れて、靴を脱ぐ。それから、少し濡れたビニール袋とその中の林檎を、土方は彼にしては少し慎重な仕草でぶら下げ持って台所へと向かった。 水場の小さな灯りを、紐を引っ張って点ける。白い蛍光灯がちかちかと明滅しながら灯った所で、土方は「ん?」と思わず声を上げていた。何か見慣れぬものが視界に入った様な気がして振り向けば、冷蔵庫の扉に、ここにも紙片が一枚無造作に貼られていた。 今度の紙片はほぼ正方形。マグネットで留められたそれは、見逃す事が無い様にと言う事なのか、扉のほぼ中央に堂々と在った。 「…『銀さんへ。お見舞い持って来たので、冷蔵庫に入れておきますね。ゆっくり休んで、早く風邪、治して下さい』」 生真面目そうな文面。特に記名は無いが、土方の頭にぱっと浮かんだのは万事屋の従業員の一人である、眼鏡の青年の姿だった。他に該当者などいまい。 (冷蔵庫…) 林檎をそっと調理台に置くと、土方はメモに記されていた冷蔵庫の扉を開けてみた。庫内には見事に碌なものが入っていない。その中央に、タッパウェアの様なものが一際目立って置かれている。 手に触れたそれは冷たく冷やされていた。蓋は開けずに外から見た限りだが、どうやら中身は煮物か何かの様だ。 この、冷え切った容器の温度から考えると、冷蔵庫に入れられたのは数分やそこら前の事ではない。眼鏡の従業員の帰宅時間などを考慮しても、数時間以上は軽く前の事だろう。と、なると、お登勢の林檎とは異なり、土方がこの家に来る前に届けられたものだと見ていい。 (俺は台所(ここ)には入ってねぇし、万事屋は缶詰開けに来た筈だが…、何も言わなかったし気付かなかったんだろうな。熱でやっぱイカレてたのか、それとも──、) いつも通りの光景だったから、気付かなかったのか。冷蔵庫にメモが貼ってある事や、差し入れが置かれる事。土方には知りようのない事だが、それは銀時にとっては余りに当たり前の事だったのかも知れない。当たり前に過ぎて、見過ごして仕舞う様な風景であったのかも知れない。 ぱたんと音を立てて冷蔵庫を閉じると、電気を消して、土方は軽く頭を掻きながら廊下へと出た。薄暗い居間へ入って、先頃した様に刀と、脱いだ上着とをソファに置く。 「………」 何となくだが、そんな気はしていた。窓辺から薄暗い外の光を受けている机の前に向かってみれば、そこにも小さな紙片が置いてあった。その上には、飛んで仕舞わない様にと言う事なのか、伝言を書くのに使ったと思しき鉛筆が乗せられている。 (『銀ちゃんへ。お見舞い、一人で食うなヨ』) あちこち間違えた下手くそな筆致に、夜兎の少女の溌剌とした笑顔を思い浮かべた土方は小さく笑う。電話の横に置いてあるメモ帳から破り取ったと思しきその紙片の横には、彼女が好物としている素昆布の小さな箱が二つ、置いてあった。 先頃そそくさと居間を通り過ぎた土方は、これにも気付かなかった。恐らくは銀時も。この家には、この場所には、あの男の元には、こんなにも色々なものたちが居たと言うのに。 解っていた様で解っていなかった。あの男が、一人珍しく病に臥して眠る男が、ひとりで寂しいのではないかなどと、土方がひっそりと胸を痛めて戻ってなど来なくても、きっと良かったのだろう。 土方は、音も立てずに寝室の襖を開くと、布団に丸まって眠っている──矢張り馬鹿面の侭であった──銀時の姿を見下ろした。 「この果報者め」 口にすると、思わず笑みがこぼれた。きっと今なら笑えているだろうと思いながら、土方はそっと襖を、今度は少しだけ隙間を残して、閉じた。 。 ← : → |