風雨臥し聽くその夜闌けに / 17 雨上がりの、この季節にしては爽やかな陽気だと思う。 二日酔いの名残も珍しく無く、頭はすっきりとしていた。僅かに残る心地良い眠気を欠伸ひとつで押しのけて、立ち上がる。 窓を開けば、直ぐ外の電線でちゅんちゅん鳴き交わし、縄張り争いに熱心だった雀たちが驚いた様に飛び立った。小さな羽音の遠ざかった後には、朝の白々しい陽光に照らされ、目覚め始めた町の気配がただただ静かにそこに在る。 勤め人や通学の足音、朝食の煮炊きの音、開けられた民家の窓から聞こえる朝のニュース。車の音、自転車の音、お早うと言い合う声。どこを切り取ってみても、それは一日の始まりの風景に相違ない。銀時が気付いていても、いなくとも、毎日どこかで同じ様に繰り返されている営みだ。 よし今日も一日頑張ろう。だなどと、殊勝な事を最後に考えたのは果たしていつの事だっただろうか。子供の頃にまで遡って仕舞うだろうか。それともそんな事自体考えた事など無かったかも知れない。 (図体ばかりでかくなって、面倒な事ばっか考えなきゃいけなくなって、毎日愚痴吐いて酒と共に呑み込み直す。大人になるってそんな事ばかりじゃねェよなとか、幾ら思ってみた所で、まぁ大体そんなもんだろって言やァ納得しちまう) ましてや、他人と生きるとしがらみが増える。縁だの絆だの友情だの愛情だのと、体裁だけは立派に取り繕ってみた所で、しがらみが増えれば人間なんて容易く雁字搦めになる。 そんなものを、昔は苦手だと思っていたものだが。 小さく笑うと、銀時は居間へ通じる襖を開いた。そこにはきっといつもの光景がある。 新八が神楽を起こして、眠い目を擦る神楽を水場へ押し出して。先に顔を洗っている銀時と、お早うと言いながら、今日は二日酔いじゃないアルか、などと突っ込まれて下らない応酬をしたりして。土方はもうとっくにそんな事は終わらせているから、居間で新聞でも読みながら眉間に皺など寄せたりしていて。 朝食がマヨまみれになる光景なんて見慣れているから、もう誰も何も言わない。それから土方は屯所に出勤していく。神楽も定春の散歩ついでに途中まで一緒だ。家では新八がいつも通りに洗濯を始めて、銀時は鳴らない依頼の電話を待つうちに眠くなって来て、大家の罵声で叩き起こされる。 逃げ出して町に出れば、午前の見廻りをしている土方と沖田に会って、銀時は沖田と一緒になって土方をからかって遊ぶ。 辺りを見回せば、近藤はいつも通りお妙を追いかけているし、お妙の横の九兵衛は番犬の様に顔を顰めているけれど、お妙が本気で嫌がっている訳ではなく楽しそうにしているから、やがて一緒になって笑う。 そんな様子を見て銀時が肩を竦めていると、どこからともなくさっちゃんがすっ飛んで来て、勝手に抱きつく事に失敗して、偶々通りかかった全蔵の尻にクナイが刺さって仕舞っていたり。 最早カオスになった賑やかで煩い世界の中で、思わず笑った銀時の直ぐ隣で、土方も同じ様に笑っていた。 ああ、良い世界だと思う。 良い夢だと、思う。 * 雨は止んだだろうか。音は聞こえないが、まだ空気が湿っぽい気がするから、降り続いているのかも知れない。 寝汗をかいたのか、布団の中はじとりとした熱さで、頭も、二日酔いの後よりはマシだが、それでも明瞭な時に比べれば大分怠いし重たい。 (…ほらな、現実なんてこんなもんだって) 思わずこぼれる溜息。室内は未だ暗い侭だ。そろそろ深夜と言った頃合いだとは思うのだが、それにしてもいつもより何だか暗く感じるのは、悪天の所為か、気分の所為か。 良い夢を見て寝覚めが悪いとは、全くどんな料簡だと言うのか。目脂の気配を感じる目元を少し乱暴に手で擦った所で、銀時の視界に不意に、余り見慣れない濃紺の色彩が映り込んだ。 濃い、藍の色。お登勢に昔貰った、夏大島。自分では袖なんて通さなかったそれを、枕元の畳にあぐらをかいて目を瞑る男が、纏ってくれている。 まるでそれがあたりまえの事のように、そこに居てくれている。 「──」 帰ると言っていた筈だったのに。惜しいなと思いながらも引き留めるには至らなくて、半ば狸寝入りする様な心地で眠ったら、その気配が去って行くのを確かに感じた気がしたのに。 銀時の胸にじわりと湧き出したその情動は、何だか泣きたくなる様な、むず痒くて叫びたくなる様な、もどかしくて苦しくなるような、そんな質で構成されていた。 目を瞑った土方は、果たして眠っているのか、あぐらをかいて腕を組んだ侭ぴくりとも動かない。少し俯いた顔は長めの前髪で簾の様な陰を作っていたが、それより下方で見上げている銀時からは、その顔はよく見えた。殆ど灯りの無い様な深夜の部屋の中であっても、きっとよく解っていた。 眉間に、もう癖になった様な皺を刻んで、隈の目立つ疲れた目を穏やかに瞑って。ここで休んでいる。ここだから、休んで呉れている。 (……そうだな。やっぱり俺ァ、すげー幸せだったんだと思う) 最初ははっきりとある程度整合性や明瞭さのある夢が、段々追いかけていく内にぼやけて曖昧になって、適当になって、意味も埒もない様なごちゃごちゃのカオス状態になるなんてよくある事だ。 でも、夢の中の銀時はそれを幸せだと思った。憶えていないがあの後きっと、桂がロケットになったエリザベスに乗って江戸を飛び回ったりして、真選組たちが慌ててそれを追いかけ回して、ヤクザ顔の警察庁長官が戦艦に乗ってご登場。迷惑な動物愛護の皇子がエリザベスを貴重な動物と勘違いして大騒ぎして、仕舞いにはいつの間にかあちこちで訳の解らないお祭り騒ぎが始まっているに違いない。そして何故かその騒ぎの中心に巻き込まれた長谷川さんが絶叫しながら走って逃げ回っているのだ。 世界がそんな風になっても、どんな馬鹿騒ぎが起きても、これだけは変わらないのだろうと確信出来る。そこで今の自分はきっと、笑っている。笑えている。 碌でもないものと等価に混じって、清濁共に流れて行くものを見つめる。隣や、直ぐ傍に居てくれる誰かと共に見ている事が叶う。何て贅沢な日々なのだろう。何て満たされた世界なのだろう。 銀時は目を瞑った土方の顔をじっと見上げながら、酷く曖昧にふわふわとしていた、幸福と言う言葉の意味を、自分なりの尺度で理解出来た気がしていた。 夢の続きはきっとここに在る。 。 ← : → |