風雨臥し聽くその夜闌けに / 4



 そうして今、致して仕舞った人物が風呂場に居ると言う訳である。
 「…………」
 酒の勢いは多分に手伝った。土方が自らの裡でそっと仕舞おうとしていた感情に対する焦りも。あとは、変化した生活に対するほんの少しの寂寥感も。
 好きだと思った事に間違いは無いし、ずっと悪友の様に『居る』、そんな関係で居たいと思っていた事にも間違いは無い。
 生活は変わったし時は未来へ少しづつその形を刻み変化させて行く。そんな中で、変わらないものであって呉れるだろうと思ったからこそ、こいつと一緒に居てみたいと、銀時はより強く思ったのだ。
 そんな感情や願望を、理想や夢と言った綺麗なものだけで出来たものだとは思ってはいない。そこまで恋情や人間に夢を見られる程、銀時は青くはない。
 だが、それは自分にしては随分とややこしい情を経て構築して来て、やっと納得や理解と言う落ち着き所を見つけた感情だったのだ。それが結果的に即物的な行為に取って変わって仕舞った事に対しては──銀時は実のところ少しばかり自己嫌悪していた。
 (酒の席での過ちだとか、最低な言い訳するつもりはねーけどよ…)
 はぁ、と背を丸めて溜息をつけば、机に落とした顎の骨がごつんと良い音を立てた。
 それでいいのか、と言われて、少しむきになった所はあったと思う。まるで、試されている様だとでも、あの時の己の茹だった頭はそう思ったのかも知れない。
 友達として、とか。抱えた侭墓場に持って行くつもりだった、とか。今まで散々に考えたり納得を探していた感情たちも、結局は、良い歳をこいて湧き出たひとつの衝動にあっさりと負かされて仕舞ったと言う訳だ。
 (情けねぇっつーか格好悪ィっつーか…、もっと余裕持って床にエスコートするぐれぇの…、何つーの、大人の対応?いや、ヤッた事は立派に大人の階段全力疾走した様なもんだけど!)
 声にならない叫びは、なかなか風呂場から出て来ない土方に対する懸念も多分に含まれている。銀時は両手で頭を抱えて、ようやっとここまで来たと言うのにいきなり逸った行動に出て仕舞った気のする己に対する後悔に似た何かを、喉奥の更に下で呻いた。
 致した事に対する後悔では無いと言うのが、我ながら正直だと思う。そしてまた溜息。
 (……や。だってよ。あの土方だぞ?『あの』。下手だの馬鹿だの抗議の一つや二つ出て来る事ぐらい、情けないけど覚悟しちゃってたからね銀さんは。イヤイヤイヤ下手とか言ってもそう言う技術的な話じゃなくて、初めてだからしゃーねぇだろって感じのアレだけど!)
 意識した事が無かった訳ではないが、わざわざ調べたりご教授願う様な事など無い。何がか、と言えば、言うまでもなく同性同士のアレコレの事である。
 銀時の脳内データベースにあったのは精々が、かぶき町と言う場所柄ゆえに否応無しに耳に飛び込んで来る様な猥談や、性に奔放な若い頃の猥談程度であった。その程度の認識でよくもまぁ、男に恋慕し、なおかつ押し倒してみようと至ったものだと、今更の様に思う。
 (って言うか猥談しか無ェじゃねーか!幾ら爛れた大人言われても、そんなに銀さん普段から猥談まみれの人生送ってねーから!興味があるとかじゃなくて勝手に耳に入って来る情報をシャットする事なんざ出来ねーから!)
 机にごつごつと額を叩き付けて、銀時は「ああああ」と意味をなさない叫びを上げた。土方が、普段は烏の行水の男がこんなに長風呂を決め込んでいると言う事は、何か不都合が生じて仕舞ったのやも知れない。
 そう、耳に入って来る猥談程度の知識しか無かった銀時の、『初めて』の行いが、ひょっとしたら土方の身に相当負担をかけて仕舞ったのではないか──その可能性こそが、後悔にも懺悔にもならない悲鳴の正体の八割方を占めているものであった。
 「……」
 頭を抱えた侭、銀時はちらりと風呂場の方を見た。水音はここからでは聞こえないが、土方は多分に未だ風呂場にいるのであろう。脱衣所や台所に居る気配はしない。
 欲情にまみれていただろう最中の記憶を掻き集めてみれば、土方は苦しそうにこそしていたが、銀時の想像していた様な文句も悪態も寄越さなかった。
 ローションの手伝いを全力で借りて、必死になって挿れたし、夢中になって触りまくって達させた。三十路の男が行うセックスと言うには、青臭さが些か強かっただろう。だが、それ程の事だったのだと多分に互いに解っていたし、土方からしても、多分そう言う事だったのだろうと思う。
 (……ああ畜生。色々思い出しても、反省っぽい事を宣っても、結局の所、)
 銀時は思わず口元を片手で覆って天井板を仰いだ。見慣れた家の隅々まで薔薇色に見えるとまでは言わないが──、
 「……すげー幸せだ」
 手前勝手な衝動に促される侭の感情と、その結果とに、銀時はぽつりとそうこぼしてかぶりを振った。馬鹿みたいに浮かれている。解っていても、何だか酷く泣きたくなった。
 平和も変わらぬ日々も変わり行く日々もありの侭移り変わる節季も、変わらずに居てくれると確信出来るものも。全てがそこに在ると言う、きっとそれは贅沢な程に満たされたもので出来ている。
 薄暗い天井板から視線をゆっくりと降ろすと、銀時は椅子の上で首を巡らせ、先頃開けた窓を見た。格子の向こうの夜空は相も変わらずに黒々と、地上に拡がる風景を無辜の目で睥睨していた。本来在る筈の、満天を覆う程の星々の瞬きはこのかぶき町では殆ど伺えない。それでも今なら、砂金粒の様に小さな星さえも見える気がした。
 やがて、かたん、と小さな音がして、風呂場から土方がゆっくりと出て来た。銀時の用意した藍色の夏大島に身を包んで、肩に掛けた手ぬぐいで濡れた髪を拭きながら。裸足の足が床板を静かに踏んで、こちらに戻って来る。
 「……着替え、借りたぞ」
 「あぁ」
 「てめーの家に、あの白い着物以外があるとはな。しかもなかなか良い紬じゃねェか」
 袖をひらりと振って言う土方の足取りは、ゆっくりと少し慎重だった。銀時は僅かに過ぎる不安や罪悪感を呑み込んで、口端を吊り上げ笑いかける。
 「バーさんに昔貰ったやつだよ。オメーによく似合ってら」
 土方の髪は、銀時のそれとは違って艶があって黒い。この国の民としては典型的な色と質だが、生まれついてそれを持たない銀時にとっては、酷く綺麗なものに見える。だからなのか、彼には黒に近い色彩がよく似合うと思えた。想像した通りに。
 「………おう」
 褒められたと感じたのか、少し鼻白んだ様にぎくしゃくと頷いた土方は、その侭ゆっくりとした足取りで机の横を通り過ぎた。銀時の見上げる窓辺に立って、軽く首を擡げて空を見上げる様な仕草をしながら口を開く。
 「何が見える?」
 「黒髪の別嬪が見えるかな」
 吹く風と同じぬるさを伴った銀時の言葉に、然し二度目だったからか土方は小さく喉を鳴らして「馬鹿か」と笑った。
 「じゃ、好きな奴が見える」
 態と真顔で言い直してやれば、三度目の不意打ちに土方は首まで紅くして、そっぽを向いて「ち」と不作法にも露骨な舌打ちをする。
 「……てめぇ、意外と臭い野郎だったんだな」
 ふんと息を吐く土方を手招きすれば、彼は寄りかかった窓辺から離れた。矢張りゆっくりと。銀時は、思い出し絶叫(正体は主に情けのない羞恥心だが)をしたくなる衝動を堪えながら、近づいて来る土方の腰にそっと片手を回す。
 「まぁ良いじゃねーかこう言うのも。お互い良い歳こいたオッさんなんだし、照れると余計恥ずかしくなんだろ」
 土方は不意打ちの様な接触に慣れがないのか、寄せられた手に寸時ぴくりと反応はしたが、振り解いたり離れたりする素振りはみせなかった。銀時がそっと安堵ともつかぬ息をつくと、彼は口をへの字に曲げた。恐らくだが、読まれた、とでも感じたのかも知れない。
 「……アホか。オッさんだから恥ずかしいんだろうが。……つーか、行動まで助平オヤジかてめーは…」
 言われて我に返れば、腰に回された手が、とん、と尻を促す様に撫でて軽く叩いていた。完全に無意識だったその動作に、銀時は乾いた笑いを浮かべて誤魔化す。
 「………や。体大丈夫かなと思いまして」
 「………………」
 途端に、土方の細めた眼にじっとりと睨まれ、銀時は背筋を嫌な汗が伝うのを感じて、藪をつついて仕舞った事に気付いた。矢張り謝るべきだろうか。言い訳は先頃思いついた通りに色々とあったが、何だかそれはそれで情けない気がしてならない。
 が、銀時の空転する思考を遮る様に、矛先を収めたのは土方の方が先だった。
 「………………………そりゃあ、突っ込まれる想定なんざしてねェんだ。あんま、その、具合も良いもんじゃ無かっただろうし、よく萎えなかったもんだと褒めてやりてぇぐらいだろうし…、」
 「え」
 俯いて小声且つ早口で言うと、「とにかく、」と土方は態とらしい咳払いをした。銀時が呆気に取られて見ている先で、彼はむすりとした表情を形作って、再びそっぽを向く。
 「……慣れりゃいいだろ、時間はどうせこれから山の様にあるんだ。…あぁいや、もう二度とやりたくねェとかならそれもそれで、」
 「イヤイヤイヤ!何言っちゃってんのこの子!」
 何事もさっさと結論を合理的に出そうとするのは土方の悪い癖である。銀時はがしりと土方の腰を両手で抱えると、兎に角こちらを向いて貰いたくて慌てて引き寄せた。
 すると、力が入り過ぎたのと、土方の足取りが覚束なかったのもあって、その体はあっさりと蹌踉めいて椅子の上の銀時に向かって倒れ込んで来る。
 「!!」
 派手な音を立てて椅子が倒れて、銀時は土方を抱えた侭床に転がった。思い切り打ち付けた背中や肩の骨が痛んだが、慌てて上体を起こして、うずくまる様な姿勢になった土方の顔を覗き込む。
 「っオイ?!」
 「〜ってぇ……!」
 「大丈夫か、何処か痛めたか?!」
 「訊くんじゃねぇ馬鹿!」
 労る言葉をかけた途端に思い切り打ち返された銀時は、土方が呻く痛みの出所が、どうやらたった今出来た傷や衝撃に因るものではないらしいと、数十秒をかけて咀嚼した。
 「……その。悪ィ…」
 「……いや……」
 腰を庇う様な土方の動作に、思わず頭を下げれば、彼は余計居た堪れなくなったのか、再び舌を打った。銀時は共に床に転がった、そんな土方の体を軽く引き寄せてみる。
 「……」
 すると彼は顔を顰めはしたものの、大人しく背骨から力を抜いた。
 「…………いや、その。ソレに関しちゃ銀さんに寧ろ全面的な責任があると申しますか…。とにかく、もうしねぇとか、そー言うのはねェから。結論を一人で急ぐのは無し」
 「…………」
 果たして銀時の懇願にも似た言葉をどう取ったのか、土方は黙った侭、ただ肩から、僅かに残っていた力をそっと抜いた。床に座り込んだ銀時の背に重みと、体温とがひといきにかかる。
 (長風呂だったからか、温かいつーか、熱ィくれぇだな)
 とん、と、その温かい温度を宥める様に掌で柔く叩けば、溜息と共に土方が目を閉じた。
 「…慣れる、で良いのか」
 「うん。俺も励む様尽力します」
 真摯な口調を作って言えば、土方はふんと鼻を鳴らしてから「そうか」と頷いた。
 そうだ。未来の事はこれから。ゆっくり進むなり築くなり気付くなりすれば良い。今までだって色々な事に対してそうやって来たのだから、それが土方との恋愛事になったって、きっと同じ事の筈だ。
 漸く湧いて来た前向きな思考に銀時がひとり頷いていると、腕の中で土方があくびを噛み殺した。目を擦る仕草は怠そうで、少し子供っぽい動きだった。思わず口元が弛む。が。
 「そう言や、おめー最近休めてなかったとか言ってた?」
 「あぁ。お陰様で三ヶ月連勤だよ」
 「…………解った。寝ような。休もう。うん」
 単純計算でも九十日休みなし。しかも土方の生業は肉体労働に近いものがある。その惨状を想像した銀時は苦笑いを浮かべながら土方の頭を撫でて言うと、眠そうな彼を立つ様に促して自らも立ち上がった。
 「それがな、新しい発見が出来たんだ。疲労が限界突破すると疲れなくなるし眠くもなくなるんだよ不思議と」
 「それなんとかハイって奴だからね。マジで危ねぇ奴だから」
 何故か得意げに言う土方に呆れ混じりに言ってやりながら、銀時は寝室の襖を開いた。すれば、先頃押し入れを引っ掻き回した侭だったので、室内はなかなか酷い様相を呈している。
 忘れてた、と頭を抱える銀時の横から、散らかった寝室を見回した土方は、肩を竦めて言う。
 「何だ、大掃除でもしてたのか?」
 「…や。おめーに渡したその、夏大島を捜すのにちょっと苦戦しまして…。後で片付けておくから、おめーは気にせず布団に入っちまえ」
 「この埃っぽい中で寝ろと?」
 「……………………直ぐ片付けます」
 真顔で首を傾げつつ言う土方の背を押して言うと、銀時は取り敢えず出したものを押し入れの物入れに全部押し込んで、見た目だけでも片付けようと膝をついた。辺りに散らばった侭の、期限切れの防虫剤を拾って屑籠へと放って、新しい防虫剤の買い置きの箱を引っ張り出す。
 「なぁ、どうせならついでに、何着か俺が着れそうなのを用意しといてくれ。どうせ着ねェもんばかりなんだろ?屯所から持って来るのも面倒臭ぇと思ってたんだ」
 押し入れを覗き込みはしたものの、取り敢えず片付けには手を貸してくれる気の無さそうな土方がそんな事を言うのに、思わず銀時は振り返った。
 「おめーさぁ、その台詞はエロいわ〜」
 「…………〜!!」
 数秒固まった土方の、眠気の濃い脳は然し次の瞬間には銀時の言う『エロい』にかかる意味を何とか弾き出したらしい。瞬時に真っ赤になった彼はそっぽを向いてまたしても舌打ち。
 着替えを置いておけと言うのは、まぁつまりはそう言う事と取って良いのだろう。銀時は完全に余所を向いて仕舞った土方をちらりと振り返って笑いを噛み殺した。幸せと言う感情が再び脳にじわりと湧き出して、今すぐ『幸せ』の元でもある彼を抱きしめてみたい心地に駆られながらも、それを堪えて片付けに手を動かし続ける。
 「……これ何だ?」
 「お?」
 ややあって。決まり悪げにしていた土方が不意に手を伸ばし、押し入れから少し離れた畳の上に転がっていた小さな木箱を取り上げた。
 掌より少し大きいサイズ。振るとかたかたと硬い音のする木箱。先頃夏大島紬を探している時に、銀時の発見したあの箱だ。
 「あー。何だか憶えてねぇんだけどさっき出て来たんだよ。バーさんの猪口か何かかもな」
 「湯飲みにしちゃ小せぇしな…。開けても?」
 両手で持ち上げた小箱を、天井からぶら下がった電灯に翳す様にして見上げている土方がそう問いて来るのに、銀時は頷いた。
 「どうせ大したもんは入ってねぇだろうから、どうぞお好きに」
 言いながら、新しい防虫剤を衣類の間に入れつつ、土方の注文通りに、彼の好みそうな着物を探す銀時の背後で、土方の手が草色の麻紐をするりと解いていく。
 「臍の緒とか変なもん入ってねぇだろうな…」
 「…やー、ソレは流石にホラーだわ。この家で寝泊まりしてる連中で、臍の緒とか心当たりありそうなのいねーし」
 「バーさんのって可能性もあんだろ」
 言ってから、開けるのに躊躇いでも憶えたのか、木の蓋に手をかけた所で土方の動きが止まった。衣装ケースから紺色の浴衣を取り出して、収納するものたちと別に分けた銀時は、冗談めかして笑ってやる。
 「いやいやいや。あのババアは何かアレだよ、木の股とかそう言うもんから生まれたに違いねぇって」
 「……てめぇな、仮にも恩人にそれは失礼だろ」
 言いながら、土方は蓋を無造作に持ち上げた。臍の緒が入っている様な音やサイズではないと気付いたのだろう、躊躇った割には全く怖じけた様子などない軽い動作だった。
 「………風鈴?」
 果たして箱の中から姿を覗かせたのは、猪口でも臍の緒でも無く、詰め物に丸めた和紙に囲まれた、小振りな硝子の江戸風鈴だった。







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