風雨臥し聽くその夜闌けに / 5



 かちん。また硝子が澄んだ音を立てるのに、銀時はぼんやりと薄目を開いた。窓の外は先頃見た時より薄暗くなっていて、風がまた強くなっていた。下がる短冊が落ちつきなく揺れ、時折くるくると舞って吹く風に翻弄されている。
 (ああそうだ。確か神楽がお妙たちと風鈴市に遊びに行って、お土産アルとか言って買ってきたやつだったか…)
 微睡みと現実との意識の狭間で、銀時の脳裏にはまだ子供っぽい事ばかりをしていた神楽の姿が思い出される。
 風鈴市に連れて行って貰って余程楽しかったのか、自分用にもと言って小さな紅い風鈴も一緒に買って、夏の間ずっと番傘にぶら下げて歩き回っていた。
 割れたらあぶねーだろ、と銀時が再三言うのも聞かずに、神楽は風鈴と一緒に歩き回り駆け回り続けて、結局外で何かにぶつけたらしく割って仕舞ったのだった。
 暫く落ち込んでいた神楽の消沈ぷりは結構な重症で、見ていられなくなった新八に言われたのもあって銀時は、新しいのをまた買や良いだろとか、何なら買ってやるからと、銀時にしては珍しい慰めの言葉をかけたのだが、その申し出に神楽が首を縦に振る事は無かった。
 そして何日か後には、お登勢やお妙に何か言われでもしたのか、「無かった事にしたって仕様がないアルよ」と言った神楽は、風鈴の墓とか言う訳の解らないものを作った。それで割り切ったと言う事なのだろう。
 墓をいちいち作る癖のあるガキってのはどうなんだよと思わずぼやいた銀時に、「神楽ちゃんは力が強いから、壊したくなくても壊れちゃうものや、消えちゃうものの重みを憶えていたいんじゃないでしょうか」と新八が言っていた。本当の所は神楽に訊かなければ解らないが、わざわざ訊く事でもない。だから銀時もそう思う事にした。
 そんな記憶がもう何年も昔の事の様に感じられる。今窓の軒で揺れているのは、あの時神楽が土産に持って来た方の風鈴だ。桔梗の柄が職人の手作業で描かれていて、短冊にも桔梗の押し花が咲いている。
 神楽が自分の分の風鈴を割って仕舞った時に、丁度季節も終わりだからと仕舞い込んだのだった。それきり存在すら忘れていた。それを偶々見つけた土方が、風情があって良いじゃねぇかと言って、その侭軒にまた吊して行ったのだ。
 それが、今湿った温い風に揺られてちりちりと鳴っている。吹く風は決して一定ではないから、楽も一定のリズムではなく不規則な音を散発的に適当に奏でている。
 それをぼんやりと見上げているとやがて、雨がぽつりぽつりと降り出す。窓を閉めた方が、と思う思考とは裏腹に、銀時は再びの眠気に誘われて瞼をそっと閉じた。
 
 *
 
 降って来たか、と思って、椅子に腰掛けた侭窓から外を見上げる。結野アナの天気予報でも午後に俄雨が来るだろうと言われていたし、先程からどこかで遠雷も低く、唸り声を上げる獣の様に薄暗くなった雲間を揺らしていた。
 予報通りの天候ではあったが、外に買い物に出かけた神楽や新八にとってはさぞや災難だろう。神楽は傘があるが、買い物の大荷物を持っているだろうし、定春も連れている。二人がずぶ濡れで帰って来る想像は易い。
 溜息をつくと銀時は読みかけのジャンプを机の上へと放り、背筋を両腕と共に伸ばしてから立ち上がった。雨音と低い雷の音とを響かせる空を遮る様に窓を閉めると、さてタオルはどの程度必要だろうかと考えながら歩き出す。
 脱衣所にある物入れには貰い物の手ぬぐいやタオルが大量に仕舞ってある。無造作に物入れの戸を開くと大概何枚かは転げ落ちて来るそれを慣れた手つきで器用にキャッチすると、銀時は定春の肉球の分も考慮した枚数のタオルを適当に掴み取って、玄関先にぽいと投げ置く。
 今はそんなに涼しくはないが、もしも二人がびしょ濡れだったら風呂も必要になるだろうかとふと考えた銀時は、続けて風呂場へと向かった。浴槽の蓋を持ち上げてみれば、中には夕べの残り湯がある。火さえ入れればそう時間もかからずに湧くだろう。
 と言っても、帰って来てから湧かすのでは遅い。早めに湧かし過ぎるとガス代が勿体無い。さて、果たして二人はどの程度前に出かけたのだったか。何処まで買い物に行ったのだか。買い物の所要時間はどの程度になるのか。
 「………」
 幾つか疑問を脳内に指折り浮かべ数えた銀時であったが、段々と何だか億劫になって来た。以前までだったら、暇を持て余してジャンプの何周目かの読破にかかっている銀時を、新八と神楽は二人して半ば実力行使で(荷物持ち要員として)連れ出して行ったものなのだが、最近はそうでもない事も増えた。
 きちんとした大人ならまだしも──と言う言い方は銀時的にはそれなり不本意なのだが──、立派なマダオを連れて出かけるのが恥ずかしいとか、そう言う年頃にでもなったのだろうか。
 ともあれ、一緒に出かけていれば考える必要の無かった疑問と手間だ。銀時は溜息混じりに、湿気で収まりの悪い髪を掻きながら、風呂に火を入れた。ずぶ濡れで帰って来た二人に風呂の事を訊かれて、ガス代が勿体無いと思ったんだなどと、みみっちく説明するのもなんだか癪に障る。二人の呆れ顔が容易に想像出来て仕舞ったからだ。
 浴槽の蓋を無造作に閉めると、脱衣所まで出て来た銀時の耳に何やら賑やかな声や音たちが聞こえて来た。どうやら丁度帰って来た所らしい。ちらりと振り返るが風呂は当然まだ湧いてはいない。だが、二人が戻って来る前に湧かそうとしたと言う体裁は一応保てた筈だ。
 (何の体裁?何の見栄張ってんの俺…?)
 濡れた足の裏を拭きながら銀時は思わず首を傾げて呻く。どうも子供らが成長を見せ始めて向こう、年齢的には自分の方が大人なのだからと、らしくもなく色々と考えて仕舞う様になった気がする。
 これが年上が年下に追いつかれる時の、焦りや諦めにも似た心理なのだろうかと考えてまた呻く。元より子供らに張り合っている様な関係でもないし、(多分)老いを感じる年齢でもない。それも何だか違う気がするのだ。
 「おー、お帰り。ご苦労さん」
 取り合えず、答えの出ない疑問から意識を切り替えた銀時は、そう言いながら廊下へと出た。
 「定春はまず玄関の外で体振ってから入れよ〜…、」
 銀時の用意したタオルを早速手に取っている神楽と、新八と、三和土に上がらずにいる定春とを順繰りに見ながら言って、そこで思わず目を瞠る。
 「…おう」
 定春の巨体から更に視線を進ませた所で否応無しに黒い色彩が目に留まる。と言うかその異彩は普通なら真っ先に目につく。銀時の言葉の何かに対する返答か、或いは単なる挨拶のつもりだったのか、頷く彼は新八から渡されたタオルを頭に乗せて、濡れた髪を拭いていた。
 「帰り道で土方さんに会ったんです。で、ちょっと話をしてたら雨が降って来ちゃったんですよ。土方さんも傘は持っていないって言うし、万事屋も近いし良かったら少し雨宿りでもって」
 何でこいつがここに?いやこいつって言うか土方がここに?格好からしても仕事中だよね??──と言う銀時の脳裏をつらつらと駆け巡っていた疑問を解消したのは、新八の簡潔に過ぎる説明だった。「まぁそんな所だ」と頷く土方も特にその説明内容には触れない。つまり大体合っていると言う事だろう。
 「あー…、そうなのか。まぁ別に良いけどよ。ちゃんとその濡れ鼠みてーな体拭いてくれりゃ文句は別にねぇよ。風邪とかひかれても面倒くせェし、床が濡れちまうし…、」
 「………おう」
 髪を掻き回して僅かに目を逸らしながら言う銀時に、土方は僅かに目を伏せて小さく頷く。今までの二人であれば、誰が濡れ鼠だとか、風邪なんざひくか、だのと言った下らない応酬が繰り広げられていた所かも知れないが、今は生憎とそうではない。想いを交わして以降、銀時も土方も、互いの素っ気ない風や喧嘩じみた素振りを装った言葉の中に、本当はどんな意味が込められているのかを斟酌出来る様に──してやれる様に──なったからだ。
 そんな二人の様子を見ていた新八が小さく嘆息するのを銀時は見逃さない。新八にも神楽にも、銀時が土方との間に築こうとしている関係性についてを話した事は無いのだが、どうにも何かを勘付いている風な態度や様子をしばしば見せるのが、実のところ少々気に懸かっていた。
 例えば今日だってそうだ。今までの新八であったら、ばったり出会って世間話こそすれど、わざわざ雨宿りにと万事屋に土方を誘う事など無かったし、土方だってそれに応じる事は無かった筈だ。
 「……」
 だからと言ってわざわざ新八に「お前ひょっとして何か知ってるの?」と問う気にもなれない。故に銀時は何となく居た堪れの無い様な、針の筵に座らされている癖にくすぐったいと言う不思議な心地を味わわされるのである。
 果たして銀時と同じ様な事を考えているのか、俯き加減で自分の頭髪を拭いている土方の手つきも何だか怪しい。落ち着きが無いと言うか集中出来ていないと言うか。
 思わずタオルを奪い取って頭を拭いてやりたい気持ちになりながらも、それを誤魔化す為に銀時は土方からそっと目を逸らした。代わりに床にまだ散らばっている未使用のタオルを拾って、三和土の上でずぶ濡れになった髪を解いている神楽に向けて声を掛ける。
 「神楽、定春の足の裏拭くぞ」
 「解ったアル。定春、表で体ぶるぶるしてくるアルよ〜」
 わう、と頷く様に鳴く定春の姿が、神楽の閉ざした玄関戸の向こうに消える。と、次の瞬間に体を震わせて、長い毛にまとわりつく水分を一気に払った。耳に飛び込んで来る、硝子の戸を打つシャワーの様な水音に、土方がびくりと背筋を正して定春の影の映る玄関戸を振り返った。
 「豪快だな…」
 「いつもやってる事アルよ。雨の後もだけど、後はお風呂に入れた時とかにも。憶えておくネ」
 ぽかんとする土方にそう言いながら、神楽は戸を開けて、水を粗方払い飛ばした定春を玄関の中へと迎え入れた。
 「ほれ定春、肉球ここに出せ。片足ずつな」
 床に敷いたタオルを指して言う銀時に「わう」と再び鳴く定春。その泥水に汚れた肉球を拭いてやりながら銀時は、どうやら新八だけでなく神楽も気付いているのではなかろうかとそっと脳内の日記の末尾に追記した。
 玄関でまだ、居慣れない様にしている土方に、果たしてこの現実を突きつけてみて良いものだろうかと考えながら。







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