風雨臥し聽くその夜闌けに / 7



 どん、と腹に響く音が夜の町中に深く静かに響き渡る。
 雨が続いてすっかりと湿気た空気を、夏の訪れを祝う様な号砲と共に震わせながら、夜空に、水面に、鮮やかな色とりどりの色彩をした大輪の花が咲き誇る。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと、代わる代わる、次々に。
 川辺に集まった人々が足を止めてその光景に見入り、火の様に燃える花が開く度に歓声がそこかしこで沸き起こる。
 道には屋台が軒を連ね、食事処の二階の窓は全て開け放たれて、食の匂いが漂い、盃のぶつかる響きがあちらこちらから絶え間なく聞こえて来る。時折度の過ぎた喧噪が起こっても、暫く経てば笑い声へと変わる。賑わう町によくある、祭りの夜の様な光景が今日は江戸のあちらこちらで見られた。
 この大がかりな花火大会は、戦の慰霊の為の催しであると言われていたが、その名目通りの湿っぽい空気を纏う者など見物客の中にはいない。江戸の人間は基本的に祭り事が嫌いではないのだ。政府が立案したのは花火大会だけであったが、いざ蓋を開けてみれば江戸中の河原や目抜き通りが縁日を一斉に行うと言い出し、花火大会は想像以上の規模となって江戸の人々の心を浮き足立たせ、或いは惑わせ、或いは慰める事となった。
 嘗て徳川吉宗公も、慰霊の為にとかの有名な下町の花火大会を立案したと言う。政府がその、幕府の嘗て行った催しの模倣をするのかと一部では一悶着あったらしいが、結局こうして花火大会が人々の間で楽しまれている現状を見れば、大衆の心や商売への熱意と、面倒な政治事と言うのは、然程に関わりが無い所で動いているものなのだろう。
 紅い提灯の並ぶ川辺の道の下、河原にまで人々の姿はあった。特にこの川は南北にほぼ一直線に通った運河で、花火の眺望は少し視点は低いが悪くはない。絶景ポイントなどと言う大層なものではないが、光って降り注ぐ鮮やかな大輪の花弁を横目に、酒を楽しむ程度には充分だった。
 そんな河原に銀時たちは居た。神楽は自分で提案した通りに、手持ちの小さな花火を片手に夜空や手元を見ては楽しそうに笑ってはしゃいでいる。そんな神楽と一緒に浴衣を着たお妙も、河原にしゃがみ込んで線香花火の果敢ない灯を揺らし、新八はその横で花火に火を点けようとして、たまの火力のありすぎるモップ砲火を受けて慌てて逃げ回っている。
 逆さにしたビールケースに座って、缶ビールを傾けながらそんな光景を見ていた銀時は、夜空を鮮やかな金色に染め上げて降り注ぐ、遠くの大きな花火をちらりと見遣った。結野アナの天気予報通り、空はよく晴れて、風も程良く吹いてくるから煙も直ぐに吹き散らされる。黒いキャンバスに花火師たちが描く色鮮やかな作品たちは、絶好の環境を以てその舞台を迎え、そうして人々の目や心を楽しませていた。
 たまの砲火のもらい火でキャサリンが顔を真っ黒に煤けさせ、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。その声を受けて河原の他の場所で食事と花火を楽しんでいた他の者らから気安い罵声が飛んで、お登勢も負けじとそれにやり返している。全く、賑やかで、うるさくて、静かな夜だった。
 ビールの缶が一本空きそうになった頃、喧噪を離れて歩いて来たお登勢にまるで見透かされたかの様に新しい缶を放られて、銀時は「さすがバーさん、年の功だけあって気が利くねェ」と戯けながらそれを受け取った。
 横に同じ様にビールケースをひっくり返して座ると、お登勢は煙草をゆったりと吹かせた。銀時はプルタブを景気よい音をさせながら開けて、クーラーボックスから取り出して来たばかりらしい、まだ冷たい缶から漂う、慣れたビールの匂いを喉へとゆっくり流し込んだ。アルコールの酩酊感が浮いた頭に心地よい。自然と穏やかな溜息が漏れる。
 「アンタはしないでいいのかィ?」
 「何を?」
 「花火さね」
 言われて銀時が視線を戻せば、河原のプチ花火大会はますますヒートアップしている様だった。神楽が勢いよく火花を散らしている花火をくるくると回して、中空に光の落書きめいた軌跡を描いて遊ぶのに、危ないからとそれを窘めながらも一緒になって笑っている新八やお妙。
 「ガキってのァ、水遊びと火遊びが大好きなんだよな。あのバイタリティにはついていけねェわ」
 自然と目が細まり、微笑みそうになるのを誤魔化す様にビールを呷って言う銀時に、お登勢が喉奥でおかしそうに笑う。
 「ふん。年寄り臭いねェ」
 「年寄り臭さの極みのババァにだきゃァ言われたかねぇよ」
 笑い合う声たち。また夜空に煌めく花が咲いて、散った。幾つも。沢山。空が光るその度に影が長く短く、足下で踊り交わして、波のない水面には綺麗に花たちが開く。
 遅れて響いて来る音は、子供の頃に遠くから見た祭りの囃子や太鼓の音の様に、腹の底を揺らして町の喧噪を空気ごと優しく撫でながら遠くまで伸びて行く。
 内臓を直接打つ様な音は、不思議と人々の気分を高揚させる。大昔の戦では太鼓やかけ声が戦意の高揚に使われたと言う。きっとその頃から人の感覚と言うのは何も変わらぬものなのだろう。戦でも祭でも、賑わいやざわめき、楽の音や美しいものに、人の心は幾つになってもふわふわと浮かぶのだ。
 銀時は小さく笑う。少し前までだったら、神楽に花火を持って追い回されて、やり返して、新八に八つ当たりめいた言葉を投げて、一緒になってはしゃいでいただろうか。居たのだろう。
 年齢や体力も違う。だから多分先に疲れて早々に離脱はどうせしているのだろうけれど、こんな風に穏やかにその風景を遠くから見つめていられる程に、落ち着けていただろうか。穏やかに見守れていただろうか。
 何か、変わっただろうか。あの頃から。
 神楽も新八も成長した。それは肌でずっと感じている事だ。それは少し寂しい事だけれど嬉しくもある。
 だが、こうして今までと変わらないかの様に、祭りにはしゃぎ回る子供の様な有り様を見せる事もある。
 何か、変わったのだろうか。変わってはいる。それは解っている。
 頬杖をついた銀時はゆるりと目蓋を降ろした。賑わう町の熱気、アルコールの匂い、花火の匂い。声。ざわめき。笑い合う響きたち。平和を謳歌し過ごす日々の結実。
 「……今のアンタも相変わらず自堕落だけどね。前までとは違って、生きていく為に生きている様に見えるよ。それが歳食った所為だけだとは思っちゃいないんだろう?」
 不意にそんな言葉が聞こえて、思わず目を開く。人二人分ぐらいの隙間を空けて置かれたビールケース。そこに座ったお登勢が、煙草を片手に夜空を見上げていた。その、厚化粧の唇が紡いだ言葉なのだと、妙に時間をかけて咀嚼してから、銀時は「は」と思わず笑った。
 「年取るとシルバー川柳やら俳句やら好きになるっつぅが、ポエムはどうかと思うよ?」
 銀時の軽い言葉に、お登勢が肩を揺らす。
 「アンタも本当に口が減らないねぇ」
 そう、妖怪顔負けの顔で言ってにやりと笑って寄越すのに、銀時は態とらしい溜息をついてみせる。見上げた遠くの空には絶え間なく咲き続ける大輪の花火。水平線を花壇の様にして咲いた花々は、いつまでも目蓋の奥に灼きつく程に、美しい。
 「あーあ、これで隣に居るのがババアの妖怪面でさえなけりゃなァ」
 「そりゃこっちの台詞だよ。アンタみたいなだらしのない男なんざ、こちらから願い下げさね」
 悪態と軽口の応酬は、穏やかな空気を僅かたりとも揺らがせはしない。その程度のものだ。慣れきった、それだけの、気安くて優しいだけのものだ。
 歳を重ねたから今が在る。だが、年を重ねただけでは得られなかっただろうものも多い。
 ビールの残りを一気に流し込むと、銀時は伸びをして立ち上がった。お登勢にひらりと手を振ると、はしゃいでいる子供らの方へと向かい、花火のまだ沢山残った袋に手を突っ込んで、線香花火を二本、そこから引っ張り出す。
 「オイ、新八、神楽ぁ、これちっと貰ってくわ」
 「あれ、銀さん?どこへ行くんですか?」
 二本だけの線香花火を手に握ると、無言で背を向けようとする銀時を見遣った神楽が「新八ィ、それは野暮ってもんアルよ」と何故か妙に得意気に笑って言う。
 「いや違うから。そーいうんじゃねーから。つーか野暮?野暮って何?信長の野望?花火で焼き討ちしちゃうの?」
 その神楽の顔に思わず眉を寄せて早口で適当に言い返すと、銀時は線香花火を袂に放り込んで足早に歩き出した。気をつけて下さいね、と、途端に何かを察した様に、にこやかに言う新八に心の中でだけ中指を立てておくと、橋の近くにあった階段を駆け上がる様にしてそそくさと河原を後にする。
 (やっぱ、完全にアイツら何か勘付いてるんだよなぁ…。いや別にだからどうって訳でもねーけどさ、なんつーか、大人をからかうんじゃありませんと言うかそう言う…)
 子供らの聡さをどうにもやり難いと感じるのだが、それもまた、歳月の積み重ねや成長の促した事の結果なのだろうか。だとしたら、年月も経験も、あらゆるものを変えたと言えよう。それが寂しいのか、嬉しいのか、心強いのか、厭なのか──その判断さえも、目の前では付け難い。
 語る様な事でもなく、ただ綿々と続く時の連続の中では、きっとそれは余りに当たり前の様に触れて通り過ぎて行くだけのものなのだ。
 (……ま。そうやってどいつもこいつも、勝手に大人になりましたって面して、勝手に大人になって行くんだろうよ)
 酔った町の空気に酔った吐息をそっとこぼすと、銀時は河の下流、花火大会の会場の置かれている方角を見遣った。その頭上で、花は変わらず瞬く様に消えては新たに咲き誇っていた。
 人の生み出したものとして、人の営みや至った平和を祝すが如くに。







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