風雨臥し聽くその夜闌けに / 9 屋形船の灯りが遠ざかる。穏やかに揺らめく黒い波頭の表面に光の花々を乱反射させた、奇妙に美しい世界へと最後の船が呑み込まれて行く。その光景を矢張りきっかり三十秒間見送った所で、土方は無線のスイッチを入れた。 「総員ご苦労。この地点の護衛対象は全員無事に乗船を終えた」 そこでちらりと周囲を見回せば、乗船場付近で慌ただしく立ち働いていた真選組の隊士らが各々大きく息をついたり、汗を拭う仕草をしている姿がちらほらと伺えた。土方は自身も吐き出そうとしていた息をそっと呑むと、無線のマイクに向かって再度口を開く。 「だが、任務全てが完了した訳じゃねェ。二時間後にはお帰りの交通整理と警護が待っているんだ、寧ろここからが本番だ。引き継ぎ作業も忘れず各自行う事。以上!」 言うだけ言って無線のスイッチを切ると、「お疲れ様です」と山崎の声。のろのろと振り返る土方の手に、よく冷えた水のペットボトルが手渡される。警察車輌に積載して持って来た支援物資の一つだろう。 「丁度喉も渇いていた頃かと思いまして」 「…あぁ」 薄く表面に汗をかいたボトルは冷たく、土方はまずそれを額にこつりと当てた。ひやりとした滴が鼻梁を伝い落ちる感触は、不快かと思いきや存外に心地良くて、暫し目を閉じる。 気温自体は初夏の頃なのでそう暑くは無いのだが、先日の雨の湿気や河の近くと言う場所、行ったり来たりと慌ただしかった業務内容もあって、想像以上に体温は高くなっていたらしい。 目を閉ざしても、花火の打ち上がる音は空気と鼓膜とを叩いて揺さぶる。打ち上げ場所に近いここでは、音と光の花とはほぼ同時に発生するから、厳かな鼓の音にも似た低い音に合わせてその都度歓声が拡がり、ざわめきとなって何処かへと流れていく。 額からペットボトルを外して、キャップをひねって開ける。こく、と一口だけ含んだつもりの水は、恰も乾いた砂漠に染み込む雨水の様な効果を土方にもたらし、気付いた時には半分近くを一気に喉へと流し込んでいた。 熱中症など起こさないで良かった、と、人心地ついて緩慢になった脳が暢気な呟きを発するのを聞いた気がして、土方は小さく笑うと、突然何事かとこちらを凝視する山崎の視線から逃れて河口の方へと顔ごと視線を向けた。 江戸湾にある人工島の幾つかが今回の花火の打ち上げ会場になっており、船舶の一定距離内への航行は危険だからと禁止している。だから、それらの島を遠巻きに囲む様にして沢山の屋形船たちが浮かんで集まっている姿は、燈火に群がる羽虫たちの様だった。 黒い穏やかな海の上に、紅い提灯の明かりが幾つも浮かんでいる有り様は、それこそお盆の灯籠流しの様にも見える。波に揺られる頼りない魂の様な光たち。 (…だ、としたら、この海の向こうは彼岸か) また花火が上がって、朱色の照り返しが花弁の様にはらはらと海面に揺れている。確か一時間ぐらい前に乗船場から送り出した、どこかの星の大使は口にしていたか。慰霊として死者に花を捧ぐ文化自体は、宇宙が広くとも珍しくはないのだと。だとしたら、所詮はアミノ酸から出来たちっぽけな生物の考えつく浅知恵など、行き着く感傷的な思いなど、たかが知れているものなのかも知れない。 あの、虚と言う、生命を超越した何か別種の存在にとってはこの世界など、人類やそれに類した生命の姿など、正しく虫けら同然のものだった。戦いには辛くも勝利したが、今再び同じ事が出来るかと言えば、正直難しいと言わざるを得ない。土方はあの時最早、ただ訳の解らない意地で刀を振り続けていただけだった。勝てるとか、勝とうとかではない。腕を、足を止めたら摘み取られるだけだと言う一念だけで立っていただけだった。 真選組の者も多くが犠牲となった。山崎も一度は危険な状態になって、死にはぐった一人だ。状況が少しでも変わっていたら、彼の魂も今この花火を彼岸から見る事になっていただろう。 果たして、彼岸の者は変わる世界の、戦で命の奪われる事の無い世界の訪れを喜ぶのだろうか。それとも、道連れが遠くなったと嘆くのだろうか。現の者たちを楽しませるばかりのこの花たちは、彼らに正しく届くのだろうか。 「…………らしくもねェな」 思考途中で自然と渋面が浮かんで、土方はふんと鼻を鳴らした。どうも感傷的になり過ぎているらしい。光と音との織りなす、ただ美しいばかりの饗宴はどうにも人間の心を不用意に揺らす様だ。 「山崎ィ」 「はい?、っと、わわわ!」 呼べば、返事は存外にまだ近くから返った。土方は声のした方にぽいと、中身を減らして随分軽くなったペットボトルを放ると、重たい隊服に包まれた腕を左右交互に上に伸ばして伸びをする。 「ちょっと副長、いきなりこんなもん投げつけんで下さいよ、危ないですから!」 ペットボトルの落下音無し。そしてこの反応。受け止める事には成功したらしい。 「……てめぇなら受け取ってくれると信じてたんでな」 「取ってつけた様に言わんで下さい。騙されませんよ」 少し考えてそう言えば、溜息混じりの声。土方は何だかおかしくなって、背を震わせる。 「………何です、一体どうしたんです?」 「いや、な」 此岸から彼岸へと手向ける花の話でもしようか。それとも、目の前の平和の有り様に諧謔味を添えた愚痴でもこぼそうか。笑いながら土方は満天の花開く天を仰いだ。思い直してかぶりを振る。 「モブコップも意外と便利だったが、やっぱりてめぇはその地味な姿形で良かったよ」 言う内に自然と目元が弛むのが解った。普段はこんな感傷的で感情的な物思いなど滅多にする事が無いと言うのに、今だから、今なら、このぐらいは赦しても良いだろうか。思いながら土方は振り返ると、歩き出した。 「……………〜はぁああ?!?!?」 素っ頓狂な声を上げる山崎の肩をすれ違い様にぽんと叩き、「一服してくらァ」と言って、土方は河原から町の方へと上る階段へと向かう。 後ろで山崎が頬をつねったりしている様だったが、気にはしない。 近藤も、沖田も、山崎も。多くの仲間も、知己も、部下たちも。失われたものは多かったが、先を共に見てくれる人たちはまだここに居る。 * 河原を離れると、喧噪そのものが随分と遠ざかった気がした。商店街で開かれている縁日と、河原で開かれている屋台村との丁度狭間に当たる街路は、花火見物に向かう人々の姿が疎らに歩いているだけで、酷く静かに感じられる。 余り河原から離れる訳にはいかない。だが、何となく疲れたから、喧噪からは遠ざかりたい。出来れば花火の、心を揺らすあの美しい事物が目に届かぬ程度の所が良い。 土方は辺りを見回しながら殊更にゆっくりと歩を進める。開いているのは店の前に臨時の席を作った居酒屋や食事処程度のもので、それらも、少し往けば花火の眺望にもっと優れた場所がある為にか、常連客同士が酒臭い息で世間話を交わし合っている程度だ。 総じて静かとしか言い様のない町を斜めに歩いた土方は、やがて街角の煙草屋の前で足を止めた。店自体は営業していないが、ぼやりとした明かりを灯す自販機が置いてある。 つい習慣で煙草屋の自販機の横にある小さな喫煙スペース──灰皿と古びたベンチが置いてあるだけだが──に立って、それから、さてどうしようかと考える。 一度は禁煙を決め込んだ事もあった。禁煙用ガムを噛み締めたり、電子煙草を口寂しさに咥えたりして何とか凌いだのだが、結局はストレスに負けて再びニコチン頼みになって仕舞った。 然し平和になって向こう、再び禁煙の努力はしているのだ。これでも。一時期から比べれば、かかるストレスや負担はほぼ変わらないと言うのに、煙草の本数はかなり減らしている。 「………」 煙草は箱ごと持っている。任務の合間の休憩時間。ストレスは適度に高め。疲労も強め。吸っても良いと言う己のリミッターは充分に解除しても良いレベルにある。 箱から直接咥えた煙草を唇の狭間で上下させながら、土方は煙草屋の建物の角にある室外機の上に腰を下ろした。火は点けない侭にそっと息を吐く。 河原の土手が高いし建物もあって、ここからでは花火はよく見えない。だが、音と、時折鮮やかな色彩に染まる空とが、花火大会がまだまだ続いている事を教えてくれていた。 遠くの方から、お洒落に飾った浴衣を着た子供たちが走って通り過ぎて行く。少し後には、それをゆっくりと追って行く親たち。奢る奢らないと言い合っている酔っぱらいの声。どこかの窓から聞こえる花火中継のテレビの音。静かな町に響くささやかな音たちを。土方は暫しの間頬杖をついてぼんやりと聞いていた。 不意に、近づく足音を鋭敏な聴覚が聞き分ける。静かな足取り。水の様な気配。花火の音と光とを引き連れて、急いた様にここに一直線に向かって来る。 土方は目を開かなかった。多分、解って仕舞ったからなのだと思う。慣れきって仕舞ったからなのだとも、思う。 やがてぴたりと目の前で止まった足音の主の目的が、煙草屋の自販機や灰皿ではない事は解りきっている。 「……花火大会を見ながら花火大会、じゃなかったのか?」 苦笑を堪えて言ってやれば、困った様に笑う気配。きっと眉を開いて、いつもの少しだらけた表情筋を器用に動かして、へらりと笑っているのだろう。 「ガキどもの体力に付いて行くのも大変なんだよ。で、一息ついでに副長さんに差し入れをと思って行ったら、休憩でどっか出て行ったって言われるしで、結局どっちも大変だったってどう言う事だよ全く」 照れ隠しの様に早く紡がれる愚痴に、土方は片目を薄く開いた。どうも期せず苦労をかけて仕舞ったらしい。 「大体、花火大会だってのに花火の見えねェ場所に来るとか、ほんとオメーは空気読めねェ子って言うか…」 「ずっとどんどんぱんぱんやってる花火の下で仕事してみりゃ、鼓膜破れそうだった俺の気持ちもちったぁ解るだろうよ」 下らない遣り取りを投げ合った所で、土方は全く火を点けていない煙草を灰皿に放り棄てた。見上げてみれば、そこには予想通りの姿で、予想通りの表情で、予想通りの男の姿がある。 「…で?差し入れとか何とか言ってたか?」 足を組んで、頬杖をついて。出すなら受け取ってやらんでもない、とでも言う様な尊大な態度を態と作って言う土方に肩を竦めてみせると、銀時は白い袂から細い、藁紐の様な何かを取り出してみせた。 藁ではない。薄紙をこよりの様に絞ったもの。 それは花火と言う名には余りにささやかな、ちいさな、掌の内でだけ咲く花。今夜空で咲き誇る大輪の花から比べれば余りに弱々しい。 だが、そんなものだから良いのだと、銀時ならばきっとそう言うのだろう。だから、今それを手にして、ここに居る。 線香花火。その名称を口の中で小さく呟いた土方は、浮かんだ感想の侭に、笑った。 。 ← : → |