ゆめのすこしあと / 10



 じわり、とペンの先で文字が滲む。
 墨が薄かっただろうかと思ってから、己の手元にある筆記具が筆ではなくボールペンであった事に気付いて、土方は目の間を指で押し潰す様にして揉んだ。
 見直す。文字は少し形は崩れていたが滲んでなどいない。歪んだのも揺らいだのも滲んだのも己の眼の方だ。
 「……」
 最早舌打ちも出なかった。土方は眉間に当てた指先に力を込めて溜息をついて、ボールペンを紙から離した。形の少々崩れて書かれた文字は修正の必要がある程では無かったが、これ以上を続けるには一先ず自信がない。象形文字もみみずののたくった落書きも公式文書に対応してなどいない。
 ペンをまだ持った侭の手を伸ばして湯飲みを掴むと、残り少なかった中身を勢いよく干す。濃い目の塩梅で淹れた茶の香りと渋みが鼻腔を通って程良く脳を刺激するのに目を細めたくなるのを堪えて、くぁ、と態と大きめの欠伸をする。
 欠伸は眠気を誘うのではなく、眠気を払う為に出るのだとか何だとか…聞いた事があるようなないような、本当か嘘かも知れぬ蘊蓄話を頭の片隅に思い出しながら、土方は湯飲みを置いた手の中でボールペンをくるりと回した。
 掌の剣胼胝より指のペン胼胝の方が多くなった様に感じる己の手をちらとだけ見下ろしてから、前髪の隙間から書類の山を見遣る。今までよりは少なくて、いつもよりは多いと言える程度の量。土方にとっては別段問題なくこなせる程度のものだ。
 それでも書類山の逆側、仕事が完了した分を入れるボックスの中身はそう多くない。
 「………、」
 矢張り出て来ない舌打ちの代わりに、小さく呻き声が漏れた。悪態としか言い様の無いそれに、土方は己の現状を改めて思い知らされる。
 言うまでもなく、はかばかしい状況とは言えない。
 己の手が数日でも仕事を放り出す事が真選組にとってどの様な状況を齎すか、と言う事ぐらいは理解している。放り出していなければ良いと言う訳では勿論無い。勤務に幾ら従事すれど、数日間仕事を真っ当に捌けぬ状況こそが問題なのだ。
 正直を言えば不眠は最早限界と言っても良い所に来ている。実際肉体も脳も休息を欲しているから眠くはなる。手元の仕事を疎かにする程度には眠くなる。
 だが、それでも睡る事が出来ない。より正確に言うならば、睡りに落ちても僅か数分で呼び戻される。目覚ましでも招集でもない、夢にだ。
 悪夢に因って土方の睡りは、ものの数分で醒める。
 そんな断続的な睡眠は真っ当な休息をもたらしてはくれない。寧ろ逆に、夢見の悪さに体力も精神的なものも消耗している始末だ。
 そんな状態の人間の行う仕事なぞまともなものになろう筈もない。計算のミス、文字の書き損じ、見間違い、些細な見逃し──それらのあらゆる失敗の可能性を怖れる余りに、疲労に苛まれながらも、否、集中力が決定的に欠けている自覚があるからこそより慎重にならざるを得ない。
 まるで負の連鎖だと思う。そこから抜ける事の出来ぬ己も、その連鎖の内側に囚われて仕舞っているのだと理解していても、どうする事も出来ない。
 煙草は、吸いながらうとうととして書類を燃やしかけると言う事をやらかしてから、少し扱いが慎重になった。せめて卓から離れて休む(努力をする)時でないと吸う気にもなれない。
 「副長」
 土方が、煙草の煙を吸って吐く様なつもりで大きく息を吐いた丁度その時、廊下から声が掛けられた。山崎の声だ、と緩慢になりつつある脳で認識はするものの、応える声を出す事さえ億劫だった。
 無言の侭ボールペンを握り直して書類に向かう姿勢を作ると、応えが無い事も予想の範疇であったのか、「開けますよ」と、それこそ答えも待たない一言だけの断りと同時に戸がすすりと開いた。
 湯飲みは空だが灰皿は殆ど汚れていない。書類は山と残っているが、向き合う手元には仕事に向き合う姿勢が見て取れる。
 そんな室内の状況にも特に何も言わず、山崎は持参して来た空の書類ボックスを卓に置いて、済み分の入ったものと交換する。いつも通りの慣れた作業に、山崎も、そして土方も特に何も口にはしない。
 遅い、とは。思っていたとして恐らく何も言いはしないのだろう。
 常より幾分軽い書類ボックスを自らの膝の上へと引き揚げた山崎は、そこでふと気付いた様に茶器の乗せられた盆に視線を落とした。急須の蓋を開けて中身が空である事を確認しながら問いかけてくる。
 「お茶のお代わりでも淹れて来ましょうか?」
 その言葉に土方は僅か眉を寄せる。いつもならば何も言わずとも勝手にしているだろう事だ。それを敢えて訊くと言う事は。
 「……濃いのを頼む」
 土方にこの注文をさせる為だ。自ら思い知る様に仕向けていると言う事だ。
 はいよ、と軽い声で応じる山崎を睨む様な目つきで見返しながら、土方はうんざりだとさも言いたげな溜息をついた。
 「…………自己管理くらい出来る」
 思わず出たそんな言葉は、まるで拗ねた子供の様だと思って何だかばつの悪さを憶える。そうして口を尖らせた土方の事を寸時、然しはっきりと見つめながら山崎は。
 「次は、『杞憂だ、んな柔じゃねェ』、ですか?」
 溜息を堪えたのだろう、眉間に彼らしくもない皺を刻みながら突然そんな事を言われて、土方は少しの間書類に目を落としてから訝しむ声を上げた。
 「は?」
 その反応の鈍さにか、今度はあからさまな溜息をついた山崎は、その場に背筋を正して座り直す仕草を見せた。居座る気満々のその態度から説教や具申の類だと見て取った土方が露骨に厭な顔になるのには気付かぬ素振りを決め込んで続ける。
 「副長が以前言った台詞のその侭ですよ。自己管理は出来ている、と、柔じゃない、と」
 実際はどうですか、と言いたげなその態度と口調とに、土方は言葉に詰まった。ぐらぐらとして集中力が殆ど無い様な為体では自信なぞないが、確かにそんな言葉を返した様な記憶は、ある。
 ……否。果たしてそれも現実の事であったのか、それとも夢であったのか、その判別さえ最早曖昧なのだが。
 夢か現か、胡蝶の夢かなどと言う愚にも付かぬ事を考える様になったら、現実を常に目の当たりにしている筈の真選組副長としては正しく不覚としか言い様が無いだろう。だから土方には記憶にあるあらゆる事柄を現実と思うほか無いのだ。
 誰かが血を流す、誰かに血を流させる、そんな場所で夢現を揺蕩う贅沢など全く不要でしかない。人の命や感情、法も社会も、夢では無い。真選組は、夢では無い。
 「……そう、だったか」
 だから土方は山崎の指摘を素直に受け取って咀嚼した。何もかもが現実ならば、何処まで行っても己に逃げ場など無いし、そんなものを求めるつもりも無い。
 そんな土方のいつになく素直な物言いに、何かしらの反撃を想像でもしていたのか、山崎はさも意外そうに瞠目してみせたが、次の瞬間には益々に訝しげな表情になる。
 「………〜そうです。もう何日だとかは訊きませんがいい加減、」
 「手前ェから見て、どう映る」
 「え?」
 詰問か進言に入りかけた山崎の固い言葉を遮る様に言えば、彼は眉間に皺を寄せた侭で片眉だけを持ち上げた。その不意をつかれた様な表情が少しだけ面白かったので、土方はほんの僅かだけ目元を緩める事を己に許した。眠気はやって来ない。こうしてさえ、何かに怖れてやっては来ない。
 その癖、人が油断している時にだけやって来ては痛い所ばかりを突いて去って行くのだ。まるで何処かの誰かに対する、己に与えた感情の様に。
 「俺の今の様だ。有り体に言って真っ当じゃねェのは承知してる。どう映ってる」
 苦味とも取れなくなって来た表情筋の合間でそう問うのに、山崎は目を瞬かせてから膝の上の書類ボックスに視線を落とした。僅かの、考える間は、土方の問いの答えそのものよりも、何故その答えを欲するのか、を探る類のものなのだろう、恐らく。
 「……………仰る通り、真っ当じゃあ、ないですね。痩せたし隈も酷いしで、まず面相が警察って言うより人斬りかヤク中です。仕事の速度も大分遅いし、以前なら有り得なかっただろうミスとかも見受けられます」
 結局は隠す事もなくざっくり正直に言う山崎の表情には、殴られる事を怖れる色は無い。忌々しいまでの無表情に対して土方は苦笑を浮かべた。ばつの悪さではなく、頼もしすぎるらしい部下への感心を示して。
 己は平気だと、どこかで傲慢に思っていた事を羞じた。
 平気の訳がない。真っ当でいられる訳がない。解っていたのに、払い除けるだけで済ませようとした己の愚かさは、こう言った真摯に向けられていた感情たちへの酷い裏切りでしかない。
 醒めればこそ、醒めたいと思えばこそ、正しく現を見なければならない。
 山崎が正直に、忌憚なく批難を口にしてくれた事を感謝しながら、土方は煙草の箱を掴んだ。一本くわえて抜き取ると、進捗の極めて悪いと言わざるを得ない書類を見遣る。
 崩れそうな文字。滲んだと見えて手を止めなければ書き直しの憂き目に遭っていただろう書類。
 そう。『これ』をどうにかしない限り、本当に己は真選組にとって役立たずの足手纏いに成り果てる。成りかねない、のではなく、成るのだ。この侭では確実に。近い内に。山崎の正直な言葉以上にもっとずっと決定的な形で。
 どうにかしなければならない。『これ』を、真選組副長の業務と生活とを阻害する不眠と、その原因となっている悪夢、それとも悪夢のようなものを。
 或いはそれが今に至るまでの全てに於いてただの夢であったとしても、土方の裡で『これ』が終わらない限りは、恐らくもう永遠に終わりはしない。終わる時が訪れたとして、それをゆっくり待っていられる余地は最早無い。
 恋が一つ枯れるまでの慰みの時なぞ、真選組の副長は待っていられないのだ。
 「……心当たりはある」
 「え?」
 「だから、」
 先程と全く同じ表情と音で驚きを示す山崎の姿へと視線を戻すと、今度は弛めていた目元に逆に力を込めて、土方は唇にくわえるだけでいた煙草を抜き取った。
 「………だから。それを何とかしてみる」
 具体的にそれが『何』だとは告げられぬ侭、土方の手の中で煙草がぐしゃりと握り潰された。
 眠れぬ夜など無く、醒めぬ夢など無く、終わらぬ悪夢も無いと言うのなら。
 夢でも、現実でも。どちらでも唯一慥かに存在しているものを、醒ますしか無いのだ。
 この恋情を、自分から棄てるしか。







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