ゆめのすこしあと / 9



 アルコールに攪拌されたぬるい空気と肉の焼ける匂いと食べ物の煮える湯気とが店内を満たしている。
 時刻は夕飯時を少し回った頃合い。仕事の疲れを癒そうとする者や日々の潤いを求める酔客たちで席の殆どを埋めた、賑やかで煩雑なその空気は本来土方の余り好むものではない。
 元より酒も肴も食事も一人ないし少人数で静かに楽しみたい口だ。賑わう店は好みではないし、誰かと連れ立って飲みに行こうとも思わない。とは言っても、人付き合いが悪い、などと口さがなく言われる事の無い程度には『付き合い』をしてみせる事ぐらいならばするが。
 少なくとも日常的に好んで行う事ではない。繁華街の賑わう飲み屋に足を運んで、そこで知己の男と出会って酒を飲み交わす事など。土方の思う限り、己の行動としてそれは余りに歪で妙な『日常』であった。
 「そん時俺ァ思ったね、ゲテモノなんぞと言われてるもんに限って美味いとか言うけどあんなん嘘だってな。結局、見た目からマイナス入ってるから、見た目のグロさにそぐわない味ってだけでスゲー美味く感じるだけっつぅかね?」
 焼き鳥の刺さった串を指先でくるくると弄びながら、鼻頭を紅くした男が先程からああだこうだと益体もない話を続けているのに、土方も杯をゆったりと傾けながら適当に応じて相槌を返してやる。
 アルコールの齎す程良い酩酊に体温は高く、脳は程良く溶かされてただただ心地が良く気分も良い。だから慣れない店の空気感にも雑多な声の入り交じる店内にも違和感や忌避感は涌かない。隣に座って、珍しく懐に余裕でもあるのか、ジョッキを豪快に傾ける男のどうでも良い話にも自然と柔和な笑みが浮かんでいる。
 「あれ、もう空じゃん。もっと行っとくか?」
 「…ああ、」
 いつの間にか空けて仕舞ったらしい、猪口を向ければ自然と男が銚子を取って傾けて、透明度の高い日本酒を注ぎ入れてくれる。溢れそうになったそれを慌てて引き戻して少し行儀悪く啜って、それでも溢れて手指を伝った分を唇で掬い取れば、隣の男が、ふ、と笑う気配がした。
 僅か頭を擡げると、カウンターに肘をついた男が、銚子を下げた手を軽く揺すりながら笑みを湛えてこちらを見ているのに出会う。
 「…………」
 それを横目に、土方が己の手に寄せていた唇からちろりと舌を覗かせて、滴る酒を舐め取ってみせると、男の笑んだ眦がゆるりと細められる。
 酔客の数だけ雑多で埒もない会話の飛び交う店内の、騒々しい賑わいが一時聴覚から遠ざかる。煩わしい程の酒の匂いや胃を揺らす食べ物の匂いたちも、視線を絡み合わせて動かない土方と男との狭間では最早何の快楽の意味をも為さなかった。
 そっと、銚子をカウンターに置いた男が、ジョッキにあと僅か残っていたビールを一気に干すと勘定を置いて立ち上がる。一歩遅れて、強い酒精の香を漂わせる杯を喉に流し込んだ土方も後に続いた。灼ける様なツンとした香りが鼻孔を通って脳を更に溶かして行く、くらくらとしそうな酩酊感に任せて歩き出す。
 白い薄汚れた暖簾を潜って外に出ると、男の手が土方の腕を捉えた。幼子の様に手を引かれる侭に夜道を游ぐ様にして歩いて進む。目的地は問うまでも無い。呑んで心地よい快楽に身を浸したい人間の目指す、薄暗い癖にけばけばしい界隈へと男の足は真っ直ぐ向かっていたし、土方もそれにわざわざ抵抗しようとは思わなかった。
 何故ならこれは『日常』の事だからだ。この男と、暗黙の了解の様に示し合わせた、言外には決してしない符丁の様なもののひとつ。セックスフレンドの様な互いの関係を惰性の様に続ける上で必要だった、最低限の『会話』が明確な言葉に成り得ない形で済んだと言う事に関しては、少なくとも土方にとっては気楽でいられるものだった。
 憚る必要のある関係性を語る言葉は無く、あったとしてそれは露骨な誘い文句ではなく、至極単純な表現方法で足りた。互いに『何』に──どんな所にスイッチがあるのかは解らない。だが、スイッチが『入った』のは解る。眼や、表情や、僅かの呼吸の狭間に情欲の色を敏感に嗅ぎ取るのは酷く簡単な事だったのだ。
 そう。互いの間にあったのは、セックスフレンドと言う、単純にその名と目的を示す行為だけの関係だったからだ。
 「……」
 理解を示せるだけに、些少なりとも情はあるのだろうと土方は思っているが、果たして男の方が『どう』なのかとは敢えて問いてみた事は無い。それはそもそも問いて良い関係だとも思っていないからなのだが。
 寸時脳裏に過ぎった思考が酩酊した気分良い心地を不快に揺する。その所為で土方の歩みが少し遅くなった事に気付いたのか、少し先を歩く男が頭を振り返らせる。問う様な視線には一切答えず気付かぬふりをしながら、薄ら暗い夜道に転々と浮かぶ派手なネオンの色を反射させる銀の髪が綺麗だな、と土方はぼんやりとそんな事を考えていた。
 歩みが遅くなっても、別段先に進む事に異論は無いと見て取ったのか、大して気にした風でもなく男は歩調を変えずにその侭少し進むと、慣れた連れ込み宿の入り口を潜って行く。一応は辺りを軽く見回してから土方もそれを追って、一見草臥れた雑居ビル風の階段を昇った。
 部屋は退室時に精算する形式のものだ。今までにも何度か利用した事があるからか、男は躊躇や迷いを見せる事もなく部屋に入ると、木刀を腰から抜いて備え付けの小さなサイドテーブルの上へと置いた。促す様に手を伸べるのに従って、土方も刀を帯から抜いて手渡す。
 「先に風呂、」
 飲み屋に行く前に軽くひとっ風呂は浴びて来ているが、店内の食べ物や煙草の匂い、アルコールの蒸散する中に混じった汗の気配を感じて、少しばかり羞恥の様なものを憶えた土方が切り出すのを、
 「要らねェだろ今更」
 男のそんな言葉と、項に落とされた唇の感触とが遮る。
 羞恥と言うよりは土方の思う常識的な感覚だ。余り汚れたり臭う様な身体なぞ他者に易々晒したいものでもない。綺麗にした姿で抱かれたいなどと言う、恥じらう処女の様な思考と言う訳では無いが、ただ居た堪れないとは思う。だが、男の方とて似た様な状態だろうからまあ良いかと思い直せば、土方は渋々と項に顔を寄せている男を振り向くべく首を巡らせた。
 唇が触れ合いそうな距離に狭まった、男の口元が、ふ、と小さく息を吐いて笑う。頬の横を通って耳朶を擽る様なその感触に土方が目を眇めているその間に、背後から胴体に回された男の腕に引かれて身体はベッドの上にぎしりとスプリングの軋む音をさせて着地していた。
 ベッドの上と見下ろす男の身体とに挟まれ、土方は心地よく酩酊を続けている脳をゆっくりと、本格的に情欲に明け渡すべく心の準備を始めた。着物の袷をそっと割り開く男の動きを手伝う様に身を捩らせる。そうしながら腕を擡げて、男の纏う白い着流しを肩から落としながら縋る様に手を背に辿り着かせて、はぅ、と小さな溜息をこぼす。
 この先に続くのは単純に快楽を追って身を委ねるだけの性行為だ。男に快楽を明け渡しながら自らも快楽を享受する、土方と男との関係性に唯一許された共有の為の行為。他に互いに繋ぐものが無くて、気が楽で、ただ刹那的な愉悦にだけ溺れて良い、それだけの。
 細めた眼の直ぐ横で、男の唇が音を立てる。何処か甘く不釣り合いな気配の漂うその感触に、然し溺れて仕舞おうかと土方が目蓋を閉じかけたその瞬間。
 「そう言うの得意になったよなァお前」
 不意にそんな事を言われて、土方は落ちかかっていた目蓋を開き、そこで凍り付いた。
 そこにあったのは、淡々と形作られた寒々しいばかりの無表情だった。
 「浅ましく男誘って。真選組の副長とか偉そうに宣う野郎が、まるで発情した雌犬みてェに」
 先程まで甘ささえ帯びた響きを紡いでいた筈の唇が、いつかどこかで見た様な醒めた表情を形作って酷くつまらなさそうに言葉を、心を発する。
 「──ッ、!」
 ただの暴力を受けたその時の様に、ざあっと熱が引いて青褪めるのを感じながら、土方はその場で藻掻いた。シーツの海と乱された着物の狭間で溺れる憐れで惨めなそんなイキモノの姿を、男はただただ醒め切った表情で見下ろしている。
 酩酊も、ふわふわとした心地も一瞬で掻き消えて、後に残るのは途方もない羞じと後悔。跳ねた鼓動にも似た情動と憤りとを着物の袷と共に掻き寄せて、土方は目の前の男から少しでも距離を放そうと後ずさった。
 飽きた、と。そう口にしたのと、全く同じ表情を作った男が、土方のそんな無様な為体を見下ろしている。無慈悲に。無感動に。より効率的に土方の精神を苛む様に──そう、矢張り土方の望んだ、怖れたその通りに。
 「      !!」
 明確な言葉かどうかも知れない、罵声なのか悲鳴なのかも解らない言葉が喉から迸るのとほぼ同時に、土方は乱された着物の袷だけを掴み寄せた侭、転がる様に部屋を飛び出していた。
 精算を済ませねば開かない筈の戸は容易く開いて閉じて、土方の世界からあの男の冽たく醒めきった気配を、嘲笑する様な表情を遠ざけてくれた。刀を掴んだ憶えも無い侭に飛び出した街路を、どんな恰好でどう走ったのか。
 ただ。
 
 「──、、!」
 
 掠れた喉の上げた呼吸未満の音と、全力疾走の後の様に跳ね回る鼓動の煩い音とに促され、目を見開いて背は布団から撥條仕掛けの人形の様に弾かれ、飛び起きていた事だけは解った。
 どくどくと、早い血流が脈打つ肋骨の下の臓器から流れて全身を苛みながら頭を冷やす。酷い頭痛をやり過ごそうと項垂れた土方はそこで漸く我に返った。
 見慣れた布団。見遣った時計の針は記憶に引っ掛かった時刻から然程に進んではおらず、庭から差し込む月明かりも未だ近くに居る。
 深夜だと言うのに何故か銀時が来て、夜廻りの隊士に見咎められる前に消えて──、それから未だ小一時間も経過してはいない。
 眠りにつこうと意識した訳では無かったが、布団に潜り込んで考えを巡らせる内にうとうとと眠りに落ちかかったのだろう。
 そして、忽ちに醒めた。
 「………、これ、は」
 か細く掠れた己の声に過ぎったのは、悲鳴でも上げて仕舞った様な記憶。生々しい夢の残滓が脳を揺するのに土方は呻いて、もう一度辺りをゆっくりと見回した。
 銀時は本当に来たのだろうか。
 「飽きた」、そう口にされたなら、そうだ、来る筈など無い。あんな訳の解らない、案ずる様な言葉なぞ投げて去る筈が無い。
 飲み屋に行ったのだろうか。
 浅ましいと嘲笑われたのだろうか。
 否、そもそも銀時との間に何か──例えばセックスフレンドの様な関係など生じていたのだろうか……?
 ひととき満ちた混乱に、頭痛を訴え続ける頭を押さえて土方はただただ狼狽した。
 今のが夢だったのか?では深夜の訪いは?昼の遭遇は?関係が生じた時は?分かれの時は??
 どれもこれもが生々しい現実感を以て土方の脳に刺さり続け、だがどれもこれもが何処か歪で相容れない。
 果たして何処までが夢なのか。或いは全てが夢なのか。混乱する思考を抱えた侭、土方は問いもその答えも探す事を已めて目蓋を硬く閉ざした。
 ひとつ確かなのは、どうやら未だ眠れぬ夜が続くだろうと言う現実だけだった。







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