ゆめのすこしあと / 8



 月明かりが雲に翳り、室内に深夜の暗さを思い出させる。だが、寸自前に眼の奥に灼きつけられた強烈な耿りの残滓は消えない。煌めいてさえいた様な、銀色の眩しさは消せない。それはまるで、記憶の奥底、心の深くて脆い所に突き刺さった感情もまた、決して易くは消えてくれはしないのだと知らしめて来るかの様な感覚だった。
 「……よぉ、」
 部屋の奥へと無意味に游がせた視線が深夜の闖入者の姿を未だ捉える事の無い侭、その男の声だけが土方の耳へと届く。潜められた小さな声。決まり悪そうに紡がれた言葉は、有り体に言えば挨拶の類なのだろう、恐らく。
 「………」
 返す応えを探す事の出来なかった土方は沈黙を通した。拒絶でも呆れでも何と捉えられても良い、ただこの不意な、急な相対は己の望む処では無いのだと、合わせられぬ視線と見つからない言葉とで示す。
 先頃まで得体の知れぬ侵入者に対して向けられていた緊張感は、今では一方向の感情と成り果ててそこに在る。怯え、と言う明確な形になって、土方自身にその恐怖を突きつけて来ている。
 それを気取られてはならないと思った。自ら決して分かれを投げつけて寄越した、この男にだけは絶対に。
 咄嗟に煙草を噛み締めていて良かったと思う。無様な声も喉の鳴る音も漏れ出さないで済んだ。問いか抗議か罵声かそれとも追い縋る惨めな言葉か。何れであっても、叫びだして仕舞う様な心配はしないで良い。
 挨拶らしき言葉を投げたきり言葉が続かないのか、銀時は自らの方を向こうともしない土方に焦れているのか、それとも困り果てているのか、落ち着き無く肩を揺らしては何か口を開き掛けて止める、と言う動きを繰り返している。
 その僅かの動きの度に、土方の全身はびくりと強張る。意識の全てが銀時の方を向いて、再び紡がれるかも知れない刺々しい言葉や暴力的な侮蔑の言葉の痛みに備えて身構えているのだ。客観的に見れば、怯えたヤマアラシか小さな子供かの様に見えたかも知れない。
 思えば、銀時が土方の住まいを──真選組屯所を──個人的に訪った事など初めての事だ。逆から見てもそれは同じで、土方が銀時の住まいである万事屋を個人的に、セックス以外の目的で訪れた事は一度として無い。
 それはそうだ。両者の関係は単なる腐れ縁と何かを違えたセックスフレンド未満。互いに互いの生活する個人的な領域に無目的に足を踏み入れようなどと思う筈もない。
 一体何の用事なのか。こんな深夜の、真選組の副長室などと言う場所に。別れ、否、分かれを告げて寄越した男が、一体何の目的があって来たと言うのか。
 解らない、想像もつかないからこそ土方の警戒心も恐怖心も消えない。今までの様に軽口を叩いた瞬間、待ち望んだ気易い応酬などではなく、嘲笑と酷い言葉との反撃が来るのではないかと言う想像も絶えない。
 『飽きた』。と。そう一言決定的な言葉を投げて分かれた男が、ここで、この土方の安息の領域で、次に一体何を踏みにじろうと言うのか。
 そんな長く気まずく張り詰めた沈黙を最初に破ったのは、結局は銀時の方だった。
 「…………、その。こんな時間に悪ィ、けど、……その、存外に警備がキツくて」
 ぽつりとそんな言葉を投げると、銀時は苦笑に近い吐息を吐き出した。肩を竦めたのだろう、衣擦れの音。
 いつものへらりとしただらしの無い面ではなく、泣く子でも持て余す様に眉尻を下げて困った風情で笑ってみせる表情を、目ではなく記憶の中に見ながら土方は、沈黙が途切れた事で漸く動く事を思い出した震える手で煙草を歯の間から抜き取った。フィルターにくっきりと歯形の残された吸い殻を目の当たりにすれば、己の動揺と衝撃の度合いが知れて自然と舌打ちが出る。
 それを不興の類と取ったのか、銀時は狼狽した様に辺りをきょろきょろと落ち着き無く見回しながら喉奥で「あー」とも「うー」ともつかない呻き声を発した。
 それを振り向きはしない侭、土方は膝をつき座り込んでいた身体を何とか動かして卓の方へと戻ると灰皿に吸い殻を押しつけた。これで銀時と距離は離れたし、顔を見ないで良い理由は出来た。だが、畳に転がった侭の刀からも遠ざかって仕舞ったから、万一銀時の目的が土方を害する類のものであった場合の咄嗟の対処は難しくなる。
 そうは思ったが、それは無いだろうとも確信はあった。何故だろうか。酷い言葉を投げつけたこの男の事が──その紡ぐだろう言葉が──未だ恐ろしいと思うのに、先頃初めて気付かされた恋情の様な甘ったるいものが未だ彼に対して残っているとでも言うのだろうか。
 虚しさと、或いは苦しさとに寸時息が詰まった。土方は銀時に背を向けた所で良かったと思いながら、そっと胸の底で燻りかけた痛みに耐えた。先程嘆いた涙の味を思い出させる様に、喉の奥で餓えた何かが暴れ出しそうになる。
 だからその代わりに、土方は必死で言葉を探した。何でも良い、この惨めな感情が溢れずに済むのであれば、何でも。あの酷い言葉をもう一度聞かずに済むのであれば、何でも良い。
 「……不法侵入って事は解ってんだな。なら、俺が誰かを呼ぶ前にとっとと出て行け」
 「……、」
 常程に易くは無く、噛み付く程に強くも無い、ただ固いだけの声音に銀時が息を呑む気配が返る。不用意な言葉は相手を傷つけるし己も疵付けられる。だから、何かを口にされるその前に拒絶し振り払おうと土方は思った。何の用だ、などと訊く必要もない。どうせ互いに分かれた男と男なのだ。ヤる事が無ければこんな時間に互いのプライベートエリアに干渉して良い理由も謂われも無い。
 屯所の警備は、城でもあるまいし銀時の言う程に厳しいものでもない。夜番の者が時間毎に歩哨に立って見廻る、その程度で、後は殆ど監視カメラなどの文明の利器頼みだ。
 それを厳しい、と感じたのだとしたら、それは侵入する側に余程後ろめたい事があるからなのだろう。誰にも気取られず、機械にさえも痕跡を残さず、一体『何』をしに来たと言うのか。
 俄に沸き起こりかけた疑問と興味とを然し土方は振りきった。互いに何も無いからきっと碌なものではない。そんな事は解りきっている。『飽きた』と突き放された時から、解りきっている。
 また暫くの間悩む様な素振りを見せながら、銀時はそこで思い出した様にブーツを脱ぐと部屋の中へと上がって障子を閉ざした。出て行け、と言う要求と真逆のその行動の気配に、土方はこれ以上怒れば良いのかそれともいっそ無視して仕舞えば良いのかが解らなくなって途方に暮れて仕舞う。
 結局振り向くもそれ以上何かを続ける事も出来ずただ、この拒絶感が伝われば良いと、早く去ってくれと願いながら、土方は卓の一点を無意味に見下ろしながら俯き続けていた。
 互いの心の裡なぞ理解出来ない。当人以外には誰にも。ただ、この男の存在が今此処に在る事が誤りである事ぐらいは解る。
 だから土方は目蓋をそっと下ろした。背を向けて、目を閉ざして、それで全てが消えて仕舞えば良いのにと、愚かな事を考えながら。
 そんな土方の、塞ぐ事を忘れていた耳に、やがて溜息混じりに銀時の声が届く。
 「…昼間、何かおめーの様子おかしかったし?なんか寝覚め悪ィって言うか、気になったっつぅか……」
 日頃よく弁舌をああだこうだと巡らせる男にしてはそれは珍しく、端的に過ぎて器用ではなかった。舌先から弁を紡ぐにも躊躇いがあるのかぼそぼそと聞き取り辛い声で一方的にそんな、意図も意味もよく知れぬ言葉を寄越されて、土方の脳の奥底がぐらりと震える。
 それは何かしらの情動である様に思われた。恐怖を通り越した世界の中で、きん、と耳鳴りの様な音が響いている。その向こうで銀髪の男は未だぼそぼそとした声音で何かを紡ぎ続けている。その意味は概ね、昼間の不意な遭遇と、それを気にしていると言う事と、土方の身を案じる様な響きを内包した言葉たちだった。
 それは最早意味を失った、言葉だった。
 今更、と強く思った。かあ、と己の身体の何処にこんな熱量が潜んでいたのかと思う程の、熱い血潮が一気に頭に駆け上るのを感じて、土方は叫び出しそうになる言葉を拳を握りしめたその中に覆った。
 「っ……、今、更、てめぇが、何を、」
 がちがちと歯が鳴った。脳髄を沸騰させそうな熱で頭が熱い。目蓋を押し開いた視界が赤くちかちかと点灯している。握り固めた拳に爪が食い込んで震える。
 「土方……?」
 きっとこれは怒りだ。怒りと、どうしようもない程の悲嘆。
 瞋恚に熱い頭の中に、銀時の問いが返る。心底不思議そうに眉を顰めた彼は、振り向いた土方の、歯を食いしばって拳を振り上げた姿を果たしてどう見たのだろうか。
 飽きた、と紡いで寄越した唇が、言葉を失って茫然と噤まれる。瞬時に目を見開き奥歯を噛み締めた銀時にはきっと他愛もなく避けられた筈の拳は、土方の口からは決して出なかった罵声の代わりの様に鈍い音を立てて届いた。
 不意打ち気味の痛打に頬を思い切り打たれて、中途半端に腰を浮かせていた銀時の身体はどさりと畳の上へと尻餅をついて転がった。然し彼は赤くなりつつある頬も血を垂らす鼻をも頓着する事無く、自らを打ち据えた土方の姿を何処か茫然とした表情を作って見上げていた。
 まともに人を殴ったのなどどれぐらいぶりだっただろうか。拳の骨が痛い。だがそれよりも、拳に握り隠そうとした感情が溢れ出す事の方が恐ろしくて、痛くて、土方はがちがちと鳴り出しそうな歯を必死で食いしばって、怒りと悲嘆に──屈辱に沸き起こる熱を、それ以上の何にも変換する事が出来ぬ侭に立ち尽くした。
 飽きた、と口にした男の淡泊な表情と声とを今でも憶えている。思い出す度に胸の何処かが引き絞られる様に痛む、その感覚を忘れる事が出来ず、どうして忘れる事が出来ないのかと、どうして痛いのかと、気付かされた己の裡の恋情が教えた。
 あの残酷で的確な言葉を投げたのと同じ声が、どうして今になって全く違う言葉を紡ぐのか。
 「土方、」
 尻をついた侭、茫然と繰り返す男の声が、どうすればあんな言葉をあの時作れたと言うのか。
 昼間サボっていた沖田を見つけた茶屋だか団子屋だかの店先で、もう忘れようと努める事に必死になっていたその姿を見つけた時、反射的に怯え逃げ出した土方に、この男はどんな顔を向けて来ていたのか。きっと、丁度こんな風に茫然と、狼狽を湛えた眼差しに案ずる色を潜めて、
 「──ッ、違、」
 沸き起こった記憶と印象との齟齬に、土方はかぶりを振った。果たしてこれはどちらが違えているのか。酷い言葉を寄越した男と、案ずる言葉を寄越した男と。それともどちらも同じものなのか。
 失敗した。気付かなければ良かった。こんな、否、あんな感情に気付いて仕舞ったから、また愚かしく疑って何かを期待して思い違えて仕舞うのだ。棄てきれぬ愚かな恋情を、また馬鹿みたいに拾い上げようとしている。何でも無い、下らない関係として終わるべきだったものに、何かの結実や意味を求めようとして仕舞う。
 飽きた。そう告げられて、そして終わった。終わらせた。恐らくは土方のそう望んだ通りに。そう怖れた通りに。
 「一体どうしたんだよ、なあ土方、」
 憤怒にぎらぎらと染めた感情は紛れもなく、怒りと嘆きとに満ちてくるしい。行き場を求めて渦巻く衝動を飲み込んで、呑み込んで、土方は訝しげな表情を浮かべこちらを見上げて来る男から顔を背けた。
 これは違う。残酷な言葉を投げたあの男ではない。だから、違う。この、案ずる様な言葉は違う。表情は違う。誰なのか。何なのか。ただ解るのは、違う、と言う本能的な感覚だけ。ただ解るのは、これに気付いてはいけなかった、と言う本能的な畏れだけ。
 腰を起こして、手を伸ばそうとして来る男から逃げなければならないと言う、正しさだけ。
 「ひじ、」
 「夜分に失礼します、副長。物音がしましたが、何かありましたか?」
 名を呼びかけた銀時がはっとなって今し方己の入って来たばかりの障子の方を振り返るのに、不意に土方も我に返った。聞こえた固い声は夜廻り中の隊士のものだ。銀時が倒れ込んだ音がどうやら聞こえて駆けつけたらしいが、流石に問答無用で戸を開ける様な真似はせずに、ただ緊張を保った気配をその場に沿わせている。
 「………あ…、…いや、問題無ェ。ちょっと捜し物をしてただけだ。騒がせちまったんなら済まねェ」
 煮えたぎりそうだった頭に冷や水を被せられた様に、土方は揺々とした心地を何とか抑えて、出来るだけ平静を装った声を上げた。同時に顎でしゃくる仕草を向けて、銀時に別の所から出て行く様促す。
 「……そうですか。何か手伝える事はありますか?」
 珍しく食い下がる部下の言葉に、これが本当に緊急事態だったら有り難い気遣いだと思いながらも、現実的にはそうではないので密かに胸中で舌を打つ。部屋の灯りも点けずに『捜し物』と言う言い訳は流石に無理があっただろうかと後悔するが、今更撤回する訳にもいかない。益々怪しまれるだけだ。
 「いや、無ェ。……何も、無ェ。大事はねぇから、もう戻れ」
 障子の向こうの部下にと言うより、困惑を隠さぬ顔をして己を見上げて来ている銀時に向かってそうはっきりとした調子でこぼすと、土方はその場に膝をついた。銀時の向けて来る狼狽の気配にはかぶりだけ振って返す。またしてもはっきりとした拒絶のそんな態度に、返って来るのを畏れたのは果たして何だったのかさえ解らなくなり、土方は憤慨の一転冷めて混乱し始めた頭をまともに整頓出来ぬ侭に蹲った。
 猶も躊躇う銀時の気配を、近付くな、触るな、構うな、と断ち切る。
 「問題が無いなら良いんですが…、」
 猶も食い下がる部下は、土方の声音や不自然な発言から何かしらの異変を聡くも嗅ぎ取っていたのだろうか。これには流石に銀時も危機感を憶えずにいられなかったのか──何せ実質不法侵入なのだから──、大人しく足音も衣擦れも完全に殺しながらそっと部屋を横切って、廊下へと続く戸を開いた。
 そこで再度立ち止まって、振り返る気配。
 「諄い」
 短く、然し鋭く言い切った土方の返しに、部下が息を呑む気配がした。銀時の方は解らない。その頃にはもう、閉ざした戸の向こうにその姿は消えている。
 「……失礼しました。それでは」
 お休みなさい、と小さな声が続けられるのに、今日の夜番のどの隊士だか具体的に誰だかさえ思い出せぬ己に少々失望しながら、土方は静かに立ち去って行く足音を聞いていた。
 今更。
 こんな深夜の訪いも、掛けられた不器用な言葉も、気付いて仕舞った己も、全てが今更だと思った。怒るにも嘆くにも、そして気付くにも、余りにも遅すぎたのだと、知る。
 そう──今更の事でしかなかった。何もかもが、きっともう遅すぎたのだ。







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