ゆめのすこしあと / 7 ああ、失敗した。 そう悟った時には土方の意識は醒め目は開かれていた。 見上げた天井の慣れた木目を辿るのも早々に諦めて上体を起こす。暗闇の部屋を見回せば、丁度月明かりが雲の狭間から顔を覗かせた所だったのだろう、ぼんやりとした光源が障子の向こうから差し込んで来て壁の時計を照らし出していた。 見えた、指す針の位置は先頃布団に入ってからまだ然程も動いてはいない。解ってはいたが思わず漏れる溜息をその侭に、土方は片手で目元を覆って俯いた。 日中疲れきるまで職務に明け暮れ、眠気の訪れを待つ内に既に日が昇る、そんな生活はいつかの山崎の指摘通りに不眠と言える状態なのだろうとは理解している。幸いにもその指摘と共に寄越された懸念の様に参って倒れる様な無様は未だやらかしていないが、それも恐らく時間の問題なのだろう確信もある。 そんな事態を回避すべく、肉体が疲労し休息を欲するのを待って無理矢理に布団に潜り込んで何とか眠りの糸を手繰ろうと努め、漸く意識がどろりと融け出すのを感じたその矢先に不意に意識が覚醒して仕舞ったのだ。失敗だった、と言う他にない。何に対する『失敗』なのかなぞ知らないが。 近頃の土方の睡りは浅く、そして短く、断続的だ。待って、やっと訪れた(かに思えた)睡眠でさえもこうして容易く去って仕舞う。 肉体は酷い疲労感を憶えているその癖、心は全く睡ろうとはしてくれない。沈みかける意識も僅かで浮上し、深い眠りに落ちるその前に意識は醒める。眠り、と言う日常の動作がこれ程に難しいものと感じた事は土方には無かった。 (どうしちまったって言うんだよ……) 項垂れ背を丸めて悄然と息を吐く。全く以てらしくない。そこまで己は繊細な質だったろうかと思っては、そんな訳があるかと笑い飛ばす。そもそも不眠らしき症状を齎したものとして思い当たる『原因』が、己にとっては実に信じ難く、そして異質なのだ。 況してやその『原因』で、参って倒れる、などと言う想定を考える様な事も。それを回避しようと努める事ですら。 (たったあれだけの、下らねェ事で、) 脳裏に蘇る男の顔は平淡に冷めて、巫山戯た冗談や腹に響く真剣な言葉を今まで紡いでいた唇を厭な形に歪めながら、その三文字の言葉を告げる。 「──、」 そしてその情景を思い起こす度に土方の胸は引き絞られる様に鋭く痛んで、眩暈に似た感覚に脳が揺すぶられる侭に酷い嘔吐感に襲われるのだ。 それはどうしようもない様な虚脱感に似て、ただただ苦しい。泥を食む様な倦怠に喘ごうとしても呼吸すら侭ならない。 あの言葉を告げられたあの時から、日に日にその割合は増して強くなって行く様だった。考えない様に、思い出さない様に、努めれば努めるだけその裏から破綻となって忍び寄る不安を憶える。眠りを妨げ他のあらゆる思考を遮る。 下らない事、がどうしてこんなにもいつまでもついて離れず、苛むのか。問えば答えは酷く簡単である様に思えたが、問いて良いのか、正して良いのかが解らない。 (………違う、そうじゃねェんだ) かぶりを振って、それから土方は眼前に掻き寄せた布団に額を沈めた。目蓋を閉ざして唇を噛み締める。涙を堪えている時の様に目頭が焦げそうに熱くて、益々固く目を瞑る。 知りたくなかったのだ。理解したくなかった。だから、眠れぬ日々の異常さに気付かぬ様にして、偶然の遭遇からは目を逸らして逃げて、殊更にこの事態を、己の状態を、考えない様にして来た。 目の前の現実を。真選組の土方十四郎がそう在る事を阻害する程の、『下らない事』の正体を。あの男に対して得たものを。 (下らねェ事じゃなかった、) そうだ、と思った瞬間、土方の脳の奥底からじわりと何かの感情が溢れ出した。それは鼻をつんとさせながら喉へと落ちて、戦慄く口蓋を押し開き子供の様にしゃくりあげる音をさせる。 下らない事では、決して無かったのだ。 あの男と杯を交わして、埒もない遣り取りをしながら飲んで、笑って、怒って。 触れ合う戯れに誘われて、応じて。 身体を歪に繋げて、情を交えて。 そしてある時不意に手放されて、呆気なく終わった。それでお終いと言うだけの事だった。互いに弁えた大人の男同士、過分に情を注いだ所で意味など生まれやしない関係でいれば、それだけの存在でいられたのだろうと思う。 土方がそこに、過分な情と言う奴を見つけて仕舞いさえいなければ。 たったそれだけ──否、『それだけ』の、事。土方にとって、その『それだけ』がいつしか占めて仕舞っていた大きな意味は、銀時にとってはそうではなかった、と言う事だ。最早『下らない事』ではいられない程に。余りに大きく育ち過ぎて仕舞っていたと言う、事だ。 (…………………俺は、) ただのセックスフレンド未満だろうが、それがどんなに下らない関係だろうが、埒も意味もない碌でも無いものであろうが、それでも、土方にはそれが楽しかった。嬉しかった。心地よかった。手放したくない、手放されたくない、止めたくない、そんな諦めの悪い未練が過ぎる程に、その感情はいつしか心の中で育ち過ぎて仕舞っていた。 (俺は、………あの野郎の事が、) いちいち気にくわない男だった。悔しさが苛立ちになって溢れればあっちも張り合って向き合うと解っていて、子供じみていると解っていながらも突っかかる様な言動や態度を投げた。その癖、馴染んで、馴れ合って気を許している己が腹立たしくて、殊更にお前になぞ興味はないとばかりに余所余所しく当たったりもした。 それも全て認め難かったからだ。赦し難かったからだ。こんなものがあるなんて、あんな男がここに居座るなんて事がある筈、あって良い筈が無いと思っていたからだ。 「好き、だった、のか、」 頬を伝い落ちたなにかと同時、己の発した滲んだ声が耳を通って胸の底に辿り着いた途端に、土方は声にはならない叫び声を上げた。それは罵声の様で、怒声の様で、或いはただの泣き声でしかない音声だった。余りに無様で、余りに無力な悲嘆のことばだった。 痙攣する様にしゃくりあげる音を止めようと口元を押さえれば、呼吸を制御しようとすれば、いつの間にか見開かれていた両眼から涙が溢れて布団を濡らす。信じ難くて、堪え難くて、無様に過ぎる己を止めようと布団に顔面を押しつけるのに、喉が抗議する様に呻き声を発した。 気付かなければ良かった、目を逸らし続けていれば良かった、と幾ら後悔してみた所で、一度堰を切った感情は行き所を求めて土方の裡を暴れ回る。泣いて喚いて楽になりたかったのか、嘆いて悔いて己を嘲りたかったのかは解らない。ただ、胸の奥から溢れ出したこの感情をこの侭ここに留めておくには余りに苦しかった。それこそ、泣きじゃくる子供の癇癪を無理矢理に止めねばならぬ程に労が要りそうだった。 「っ、馬鹿か、俺ァ……」 沸き上がる自嘲の侭にこぼせば、自然と笑みが浮かんだ。苦しげに鳴る喉を堪えて、腕で乱暴に目元を拭う。 恋情なのだ、と思った。愚かな、愚かな恋だと、思った。 だが、それよりも──これに今まで気付く事の出来なかった己こそが最も愚かしいと、そう思った。 否。ずっとそこから目を逸らし続けていたのだ。土方にとって己は真選組ひとつのものであって、それ以外の何処かに、或いは何かに心を向ける事など考えもしなかった。有り得るとも思えなかった。だからあの男との距離が近付くその度に目を背けて距離を挟もうとしていた。どうしてそうしなければならないと思ったのか、にさえ気付く事も出来ない侭。 「……馬鹿、だな、」 そうして置いた距離の結果、やって来た終わりの時に責め苛まれて今もこうして無様に頭を抱えて嘆いている。子供の様に、感情の行く宛が解らず涙になって溢れるまで気付かず、気付いても止める事さえ既に手遅れで出来ない。 男友達ではなく、仲間でもなく、ただひとつの秘密だけを共有したセックスフレンドかそれ未満と言う、土方にとって体の良い関係に勝手に当て嵌めて、それで良いのだろうと思っていたのに。 静かに認めて仕舞えば、それは余りに容易いものだった。容易い関係には大凡相応しくない、煩雑に絡み合った己の感情。 容易く身を重ねて、容易く互いに相手の最も深い部分に触れて仕舞ったからなのか。逆に、その理解は非道く遠かったのだろう。そう、余りに簡単に手を伸ばされ、簡単に手を取って仕舞ったから、こそ。 銀髪の男の、常は知らぬ姿を、様子を、熱い言葉を、知る毎に背筋が歓喜に震えた事も、それならば理解が叶う。触れて、触れられて。どちらが先だったのかは解らない。ただ、いつしかそこに己の情を──単なる愛着を通り越した、恋情を乗せて仕舞っていたのだ。 その感情が然し破れた今となっては最早ただの役立たずの心の残滓でしかないと解っていても猶、土方の裡に生じた脆弱な何処かはそれに苦しむ。 今更だ、と思って笑う。いや、今更であろうが、手遅れでなかろうが同じ事だった。銀時との関係はその間に何かの情を差し挟んで良い様なものではなかったのだ。飽きて、終わる。或いは、過ちに気付いて、終わる。何れであっても、何に端を発する切っ掛けがあろうが結果は変わらないものだったろう。 長引く関係でも長引かせて良いものでもなかった。銀時もそれを解っていて、もう潮時だと思ったからこそ、否やを唱えさせぬ分かれを切り出して寄越したのだろうから。 だが、『飽きて』棄てられた男は過分な情をそこに乗せて仕舞っていた。ただ、それだけの話。飽きていないどころか、自覚してさえいなかった想いを持て余してすらいた。棄てられないのはどうしてだろうかなどと、明白な解答から逃げて、思い知るまで、思い知らされるまで、気付かされるまで。 破れた愚かな情さえ棄てる事の出来ない、そんな惨めで脆弱な男が、真選組の副長などと宣っているのか。部下の信頼を裏切る様な真似をしてまで、一体何をやっているのだろうか。 ただのセックスフレンド。想いを、情を交わした訳でもない、それだけの関係性に。どうしてそれ以上の縋る標などを欲して仕舞っていたのか。 嘆き疲れた心に、然し浮かぶ表情は悪夢に苛まれ続け草臥れ果てた己に対する自嘲のみ。涙なぞこぼれない。余りに無様過ぎて、憐れみさえ涌かない。 悔いるも理解するも羞じるも最早遠く過ぎ去った後の話だ。直視するに余りに遅すぎた感情だけが遣り場を失って、今こうしてここで無様に哭き声を上げさせている。既にどうにもならない時の向こうの事だと、解って諦めを得ているからこそ。 この熟れ過ぎて苦しい感情が胸の底にいつまでも残り続けている限り、恐らくはこの眠れず苦しむ日々は終わらない。きっと土方の本能が何処かで理解しているのだ。眠れば──完全に夢に落ちれば、また『あれ』が来るのだと。たった三文字の言葉に疵ついた己を嘲笑おうと待ち受けているのだと。 予期しなかった終わりと、気付きもしなかったその恐れと。それだけの事が土方を、真選組の副長である心から遠ざけて仕舞う。どうすれば良いのだと、乾いた涙の貼り付く目蓋を力無く上下させて、土方はただただ途方に暮れて項垂れた。 やりようもない。仕様もない。だから、諦めてこの胸から痛みが去るその時を待つほかないのだろうか。気付いて仕舞った今ならば、それは酷く痛みを伴うであろうが、楽である様に感じられた。最も痛い何処かを記憶の中から引っ張り出さなければ良い。最も恐れる事を記憶の中に描き出さなければ良い。過ぎた恋など何にもならない。この侭抱えて行こうと思える程土方は自虐的にはなれそうもなかった。 (俺の中でこれが消えるまでは、辛抱するしか無ェんだ) 静かな結論に思わず苦笑が浮かぶ。実らなかった恋を忘れようとするのはこれで二度目だ。実らせるつもりの無かった幼い恋と、実る事を放棄させられたこの恋と。 馬鹿馬鹿しいと思って喉を鳴らす。今になってこんな、何の役にも立たぬ様な感情を知って痛みや苦しみを憶えるなど。思いもしなかった。 (私情なんざ、全部真選組に捧げたつもりだったんだがな) 思うより心はそうも行かないと言う事か。自嘲めいた笑みをそっと溜息で吹き消すと、土方は布団から這い出した。卓上に乗せてあるティッシュ箱から何枚かを抜き取って顔に残る僅かの残滓と洟とを拭う。 時計の針は今日の終わりを僅かに過ぎた頃だ。今から仕切り直して改めて眠りに落ちれるかは解らない。否、落ちたとしてきっとものの数分でまた意識は冴え渡って仕舞うのだろうけど。 夜の闇に沈んだ室内も、もう大分目が慣れているから不自由はない。尤も元より慣れた部屋の中で物の場所を探り間違うとも思えなかったが。土方は洟紙を屑籠に放り込むと、もう一度卓に手を伸ばして煙草の箱を掴み取った。 部屋の電気とは違う手元灯りもあるのだが、迂闊に灯なぞ点けて、また深夜まで残業をしているのかと山崎に余計な詮索をされるのは御免だった。あの妙な所の鋭い部下が、この僅かに腫れている様に感じられる目元に気付かずにいてくれるとは到底思えない。 それに山崎でなくとも、深夜に屯所の巡回警備をしている部下にも、だ。連日深夜に灯りを点けて副長の不眠を悟られる訳には行かない。 泣いた後には眠くなるのだったか、とぼんやりと考えながら、土方は眠気か、それに近い気配を待って卓に軽く背を預けた。緩くくわえた煙草に火を点け、いつもより苦味を増して感じられる香りをゆっくりと肺に溜めては力無い溜息で全てを吐き出せば、冴えた頭の思考の侭に再び苦笑が浮かんだ。今度のものは自嘲よりも力が無く、土方は己が何だか酷く惨めで矮小な存在である様な心地にさせられた。 その空気が余りにも居た堪まれない様に感じられたからか、土方の意識は自然と己の内面にではなく外界へと向けられた。今は余計な事を考えたくないと言う無意識もあったのだろう、視線が向く侭に思考が流れて行く。 素足で触れる畳、かちこちと規則正しい音を立てる時計、衣類の入った行李、長押に掛けられた黒い制服。それから、曇り空の合間に偶々顔を覗かせたのだろう、ぼんやりと障子の向こうの風景を照らして行く月明かり。 「──」 明かりが影を作っていったのはほんの一瞬の事だった。だが、土方の目はそこに照らし出された、ある筈の無い何かの影と、何かの気配とを見出して仕舞っている。 咄嗟に起こした身は緊張に強張り、手は自然と枕元に置いてある刀を掴んでいる。だが、未だ鯉口を切る事はなく、土方は慎重に柄に手を掛けて障子の二歩前に立った。 この副長室は日中には隊士の詰めている業務区画にあり、夜間の人通りはほぼ無い。どちらかと言えば建物の裏手に面しているから、部屋の外はその侭裏庭となっている。近藤や土方が特別に風雅を好む訳では無いから、庭と言っても芸術的な様式が何か設えてあると言う様な事も無く、ただ視界を遮るには至らない少量の庭木や灌木の茂みがあって、後は外の塀が聳えるのみだ。 土方は部屋の明かりを灯してはいない。故に、外から見た限りでは部屋の住人が就寝中か刀を構えて息を潜めているかまでは知れない筈だ。 山崎だろうか、と一瞬思って直ぐにかぶりを振る。あの部下であれば土方に悟られたと気付いた時点で正体を現しているだろうし、そもそもこんな風に気配を殺して部屋の前に佇む様な真似はしない。 と、なると、この不確かな気配の主は不審者に類するものであると判別するほかなくなる。 舌打ちをしたくなる心地を堪えて、土方は衣擦れの音一つ立てぬ様慎重に、障子からまた一歩後退するとその場に膝をついた。相手が賊なら叩き斬れば良いだけの話だが、この様子だと副長室をピンポイントで狙って来た可能性が非常に高い。それは即ち、屯所の構造に熟知した者からの情報を得る事が必須になる事でもある。内通者、と言う苦い言葉を呑み込みはせずに奥歯で擦り潰しながら、土方はそっと息を潜め続けた。去るも来るも、敵が──気配が──動いた瞬間に勝負を決するべく呼気を詰める。 その時、月明かりが再びぼやりと差し込み始めた。庭木は然程に音を立ててはいないが、上空は風が強いのかも知れない。思って、視線を障子へと向ける。 何にしてもこれは好機だ。気配の主の実在が確かであれ、不確かであれ、これで確認が出来るかも知れない。 見遣る土方の緊張の視線の先で、じわ、と拡がった月明かりが滲む影をそこに映し出す。 その影が──その頭部が、纏まりなく跳ね回る毛先を抱いたものであると気付いた瞬間、土方の喉が掠れた吐息にも似た厭な音を鳴らした。 「、」 立てていた片膝ががくりと震えて落ちた。かたん、と音を立てて畳に転がる刀が、気配の主と土方との間を保っていた静寂を無粋に引き裂く。 尽きた静けさに押し出される様に、すい、と障子が横に静かに引かれ、いつからかそこに確かに在った気配の主の人物の姿をその場に顕わにする。 男は縁側に腰掛け、半身を振り返らせる様な姿勢で障子に手を掛けて、部屋の中を見ていた。その視線は程なくして、刀を落として茫然と膝をついて座り込む土方の姿を容易く捉える。 その時男が、銀時がどんな表情を浮かべたのかは土方には解らない。それより先に視線を逸らして逃げていたからだ。 失敗した。本当に。これ以上無い程に、誤ったのだと思った。 。 ← : → |