ゆめのすこしあと / 12



 望んで見た筈の悪夢だった。棄てる為に求めた筈の結果だった。
 だが、現実はどうだろう。どれだけ無様で愚かであっただろうか。
 お前に、惚れてる。──そんな言葉を聞いた瞬間、確かに土方の裡に浮かんだのは途方もない歓喜だった。貫かれて死んだ歓びと絶望の入り交じった感情だった。
 真選組の為に棄てようとした筈の想いを繋ぎ止められそうになった瞬間に喜ぶなど、安堵するなど、一体己はどれだけ愚かなのか。余りの無様さに気付いて仕舞えば絶え間ない自己嫌悪が胸にのし掛かり、喉がしゃくり上げる様な音を立てて笑う。
 闇雲に走ったつもりでも、ここから何処かへと消える事が出来る訳ではない。それでも少しでも遠ざかりたかったのだろう、駈ける足が無意識に選んだのは賑わう繁華街とは逆の方角。いつの間にか辺りから人通りは途絶え、土方が漸く足を止めたのは舗装もされていない川縁の土手道だった。
 いつの間にか土砂降りの様相を呈していた雨が肩を無遠慮に叩き、足下は泥に汚れて、黒い制服はすっかりとずぶ濡れになっている。大粒の鋭い雨が叩く肌が痛い。目も開けていられないけど天を仰いで吼えた。声にならない空の喉が溺れそうな音を立てる。
 棄てようとした、否、棄てた筈の恋情が、どうしてこんなにも絶望的な痛みを伴って寄り添って来ているのか。酷く滑稽で、馬鹿馬鹿しい。余りにも。
 この痛みを感じない様にする為に、棄てようと、諦めようと悪夢に見てまで縋ったと言うのに、結局はこうなった。
 では、あの恋情を受け取っていれば良かったのだろうか。胸の裡にひっそりと咲かせて、今日と言ういつかの結実を待ち望んでいれば良かったのか。
 ──否。否、それは有り得ない。真選組の副長である事をどうしても已める事の出来ない、そう在り続ける事を何よりも望んでいる土方の裡には、銀時の存在を、抱く恋情を置いてやれる隙間など存在してはいない。だから、有り得ない。有り得てはならない。
 それは己でよく理解している事だ。自分は人を幸せにしたり、愛した誰かの為に生きる事など決して出来ない人間なのだと。
 間違っても、分かれの悪夢が現実となる事を恐れて、睡る事さえ出来なくなる様な、そんな弱さは在ってはならない。
 (……だが、それもこれで終ェだ)
 悪夢に見た通りに分かれて、終わった。疵付けた。だからもう、今日からは何に煩わされる事もなく、今まで通りの真選組の副長としての生活が戻って来る。
 叶った恋情だから、棄てる事が出来た。諦める事には失敗したけれど、もう葬る事が出来た。
 それなのに。どうして頬を伝う雨の中に熱いものが混じっているのだろうか。
 どうして、、
 
 *
 
 惚れてる。
 そう告げた男の真っ直ぐな目が射抜く様な鋭さで向けられている。その表情は土方には全く憶えが無いものだ。
 刀を手にしている時でさえともすれば重たげな侭でいる目蓋と、さして熱も執着も持っていなさそうな無気力感の滲み出た眼差し。常の坂田銀時の表情とは概ねそんな要素で構成されている。だらしがないと言うよりは単に若々しい覇気に欠けて締まりのない表情なのだと土方は評している。
 その目が真っ直ぐ己を見据えて、唇が動いて言葉を紡ぐ。惚れてるのだと。ただそう真摯に。
 途端に片恋でしか無かった筈の恋情には忽ちに色が付いて、視界が灰暗い絶望にひととき包まれる。
 ああ、終わらせなければ。
 「飽きた。だからてめェとの遊びもこれで終ェだ」
 「──、?!」
 己の放った筈の言葉が、つい今し方「惚れてる」そう切実に紡いだ男の唇から紡がれて、土方は目を見開いた。
 「真選組の副長って奴ァ、男に簡単に脚開く雌犬にでも容易に務まるんだな?全く、良いご身分なこって」
 緩く目を細めた男の口蓋の奥には、何か別のイキモノが潜んでいるのではないだろうか。
 毒の様な、或いは泥の様な、何かを吐き出す悪意が。
 恐る恐る見上げた、銀時の表情は薄く微笑んでさえいた。土方が夢に度々恐れた醒めた顔ではなく、柔和な包容力さえ湛えてそこに居る。
 「ほら、これがてめェの望みなんだろうが」
 真剣な表情が。優しげな声音が。形作る言葉も、言葉を発する銀時の様子からも解る。疵付いたのだと、疵付けたのだと残酷な程にはっきりと知れて、土方は愕然とした侭鈍い痛みを訴えて来た胸を服の上から鷲掴んだ。
 分かれを望んだ悪夢が。分かれを恐れた悪夢が。望んで現実にした悪夢が、どうしてこんなにも、どうして。
 ……どうして、こんなにも痛いのか。疵付いた男の表情を見るのが、どうしてこんなにも辛いのか。
 
 「──」
 
 息を呑んで目を開く。見慣れた天井と嗅ぎ慣れた部屋の空気。寝汗に濡れた背中と冷えきった布団。障子の向こうから斜めに差し込んで来るのは早朝と言うには早すぎる陽の光。
 「………」
 ちくしょう、と、掠れて細い声が軋る歯の隙間から漏れた。土方は持ち上げた片手でまだ熱い目元を覆って、鼻孔の奥深くがつんとなるその痛みに堪える。
 これは、夢だ。今度はもう解っている。今のは夢だったのだ。今のが、夢だったのだ。
 昨晩銀時に酷い言葉を投げて分かれて、ずぶ濡れの侭屯所に戻った。巡回に出たら雨に降られたと笑って言えば誰も土方の言葉を疑う者はいない。それから眠くなるまで仕事をしてから床についた。
 歪に繰り返した夜の事なぞ忘れて、真選組の副長としての生活に戻った。
 反芻してから、ちくしょう、ともう一度呻く。
 折角上手く銀時の想いを踏み躙る様な形で、分かれて終わると思ったのに。あんな酷い言葉を投げたのは己の方だと言うのに、なんと言う様だろうか。
 これではまた、棄てるのに苦しむだけだ。自覚させられた恋に返った確かな結実に憤って、今度は悔いを嫌悪して忘れるまでを苛まれる。
 疵付けた男の顔など見なかった筈なのに、それが解って仕舞ったから。
 あの男の気持ちが、解って仕舞ったから。
 それでも、貰った情とくれた心を、疵一つ与えて返す事しか出来ない、それが土方の選んだ途だ。己の為に他者を疵付けて背を向ける、それが鬼で在らねばならない人間の進む途だ。
 「………そうだな、」
 時間を掛けて漸く、喉奥から滑り出た言葉は何故だろうか、酷く澄んで聞こえた。
 「どうしたって易々消えてくれる訳ねェよな、てめぇが」
 土方の記憶の中には、いつも何処かふてぶてしくて怠惰にへらりと笑っていた男の表情しか残されていない。身体を重ねても、ひとかどの情を得ても、男の態度は変わらなかったし、土方も何かを変えてみようとは思わなかった。
 それでも、いつの間にかすっかりと居座って仕舞った、その存在の大きさと重さとが──その空けた空隙が苦しい。
 好きなのだと自覚してから、好かれているのだと気付かされてから、恐れていた事に気付いたのだ。どれだけ己があの男の事を好いていたのか、好いているが故に手を離される事を何よりも恐れていたのだと、知らしめられた。
 真選組の事よりも、坂田銀時を失い難いと思って仕舞った己はきっと正しくない。土方十四郎にとってそれは、どうあっても選んではいけない選択なのだ。
 悪夢に疵付いて目覚める、無様で無意味な時間はもう終わりを告げた。だから後は、繰り返し見るのは惰性にも似た罪悪感だけだ。それ自体は当然の報いだろうとも思う。
 終いには、この裡からあの男の存在が消えるのを待つほかない。それこそ、恋が枯れるまでの間。
 偽りの言葉を投げて酷く疵付けたあの男が、もう好きこのんで土方に近付いて来るとは思えない。逆に、これで諦めもついた事だろう。近付いて来なければ、或いは酷い言葉を携えて復讐でもしてくれれば猶良い。せめて、男を疵付けた分だけ己はそれより深く疵を負うべきだ。全てはこの、土方の裡に生じて仕舞った、決して叶えられない恋情の所為なのだから。







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