ゆめのすこしあと / 13



 数日降り続いた雨はもうすっかりと上がり、昼下がりの空は澄んだ蒼に少量の真白な雲をぽかりと浮かばせていた。まだ少し湿り気の残る空気が漂っていたのは朝方までの話で、家々の軒先に吊された洗濯物は殆ど乾いて軽く、緩い風に煽られ揺れている。
 洗濯日和で散歩日和で買い物日和。そんな久方ぶりの青空を堪能したいと思うのは皆同じなのか、街路を歩く人の姿、軒下の縁台や公園のベンチに腰を下ろす人の姿は常より少しばかり多い。
 舗装されていない足下には時折水溜まりの残る箇所もあって、野良猫がそこに舌を突っ込んでいる。満足したのかそれとも気に入らなかったのか、不意に顔を上げた猫が、くあ、と大あくびをするのに釣られそうになって、銀時は意識して表情を固くした。眇めた目の端だけに穏やかさを残しながら、次には退屈そうに毛繕いを始めた猫の横を通り過ぎる。
 蒼天を仰げば、地上を歩く人間と空との間には複雑に行き交う電線が横たわって遮る。何処にも行けない、何処にも届かない、そんな狭窄的な気持ちになりそうになってそっとかぶりを振った。我ながら解り易い落ち込み加減だと思うが、沈み込む為に外に出て来た訳では無いのだ。そもそも余り長いこと悩み事を背負い続けてられる程繊細な性質でも無い。筈だ。
 とは言った所で『それ』が銀時の裡より消える事は決して無い。最早悩みや落ち込みと言うよりはどちらかと言えば憤慨に近かったかも知れない。解り易過ぎる嘘を投げて去った人への、もどかしい様な怒り。
 本能ではなく、理性でもなく、己の感情と言う道理のみを選んだ挙げ句の懊悩は、きっといつだって人には未知で、満たされぬが故に充たされたいと言う単純な願いは尽きないのだろう。
 本能や打算で行う縄張り争いでは決して得られないもの。理性や駆け引きで行う卓上では決して得られないもの。それが人間の心と言う事だ。
 元より銀時には得られないものに対する執着は酷く薄い。何かが欲しい、と具体的に思った事など幼少時から今に至るまでとんと憶えのない欲望だ。
 日々掴めるものだけを掴んで生きて来た者の、それが習い性、或いは本能であったのかも知れない。そんな銀時であったからこそ、彼は恋情などと言うものに耐性なぞ無く、それどころかその存在でさえ猜疑的であった。ただの個人の感情、それも惚れた腫れたで人生も時には世界さえも変えられるなどと言う道理は、理屈でこそ解ったつもりになれど、実感を抱くには到底至れなかったのである。
 土方に惚れて仕舞ったと自覚したその後も、扱い慣れない感情だからこそ慎重に諦めて取り扱うつもりで居たのだ。それをどうして、無理矢理に一線を越えてしまおうなどと思ったのか──思い起こせば後悔しか最早沸き起こらないのだが、それこそ理に適わない、本能でも理性でも無いただの『欲』に唆されて仕舞ったのだと言うほかない。
 欲したのは肉欲よりもただの餓えであった。己が土方を見て知って憶えたその感情を、同じ様に己にも向けて貰いたいと言う、ただの些細な欲望。
 それも勝算があると思って踏み出したと言うのに、肝心の土方は逆にそれを──セックスフレンドと言う言い訳の関係を享受し頑なにそこに踏み留まって仕舞った。尤もそれは、土方と言う人間の性情を考えてみればなにひとつおかしく無い話だったのだが。
 結局銀時の崩した関係は土方を散々に惑わせて、そうして彼自身の手でそれを消させるに至ったと言う訳だ。恋情を諦めきれずに居た銀時からすればそれはある意味で決定的な諦めと敗北であったが、そこに来て初めて気付いて仕舞った事がもう一つあった。
 (……アイツが拒絶した所で。俺がそれに追い縋れなかった所で。諦めるどころか余計にどうにもならねェ感じになったっつう…、)
 それはここ数日の雨を理由に部屋に鬱いでいた銀時の胸中で幾度と無く繰り返し辿り着いては消えない結論であった。
 笑みは乾いた。その解り易い己の有り様が痛快な気さえして銀時は笑う。力なく。
 銀時が踏み込もうとして土方がただ避けた、以前までとは違う。その口にはっきりと決定的な答えを言わせたと言うのに。言われたのに、それでも。
 いっそ清々しい程に、
 (フラれたってのに、ちっとも消えてくれやしねェ)
 この恋情は変わらず銀時の裡に静かに存在し続けていた。
 いい加減諦めも悪い、とは己でも十二分に承知しているのだが、沖田や山崎に口々に問われた『土方の不調の原因』とやらが銀時に在ると散々指摘された挙げ句の別離の言葉と、今にも歪んで嘆きの叫びでも上げそうな表情とが、どうしても引っ掛かって離れないのだ。
 (そりゃあ…諦めも悪くならァな)
 未練たらしい話かも知れないが、諦める気もこの侭引き下がって良い気も、己には無かったらしいと言う事だ。
 (すっきりしねェってのは、どうやらあちらさんも同じかね)
 雑踏の隙間を抜けた視界が不意に捉えた姿を見て、銀時は片目をゆっくりと眇めてみせた。余り歓迎の気配の無いその態度を気にするつもりは端から無いのか、いつぞやの様に団子屋の店先に腰を下ろした地味な形の男は、愛想笑いを浮かべながら小さく黙礼して寄越すのだった。
 
 *
 
 「ここで張ってればいつかは通りかかるかなって思ってました」
 開口一番そんな事を言って来る山崎のフラットな表情を見下ろして、銀時は黙った侭その場に立ち止まった。店主の親父が怪訝そうに視線を投げて来るのに軽く肩を竦める事だけで返して、腕を緩く組んで壁に後頭部を預ける。
 「そりゃ相変わらず税金泥棒さん方もお暇なこって」
 待っていた、ではなく、張っていた、と言う事は、少なくとも何日かは、或いは何時間か、そう少なくない時間は待ち伏せしていたと言う事だろうか。思った侭に辛辣に返しながら、銀時は眼下の縁台に腰掛け茶を啜る監察の男を無表情に見下ろした。さもうんざりとした風情で大きく肩を上下させる。話し辛い位置だとは思うが、余り長居をするつもりは無いと言う意を示す為にその侭続ける。
 「で、まだ何か用なの。俺の想像通りなら副長さんすっかり元気になってると思うんだけど」
 それは言外に嘗て問われた『心当たり』が在ったと言う事を肯定して仕舞った事に他ならないのだが、知ってか知らずしてか山崎がそこに切っ先を入れて来る事は無かった。彼はいつかの様な無力感を漂わせた力ない笑みを態とらしく形作ると、茶を啜る事で僅かの間を空けて言う。
 「まあ、元気と言えばそうですね。不眠も大分治って来た様に見えます。けど、今度はどうにも寝覚めが悪いみたいで。いつもまるで酷い悪夢から醒めたみたいにしてます」
 「オイオイ。人を散々容疑者扱いした挙げ句、今度は寝覚めの世話とか冗談止せよ?つーかもう俺関係ないよねソレ絶対」
 鼻の頭に皺を寄せた銀時は不服げに言い放つが、『関係ない』と言い切るにはこれまでの事情や、一度は問われて解らないと答えた『心当たり』の問題もあって、どうにも説得力が足りないだろうかと思えた。とは言え山崎の側に銀時を明確に疑う根拠も相変わらず無いのだからお相子なのだが。
 「………」
 重たい溜息を吐いて、銀時は今日も跳ね回っている自らの頭髪をぐしゃりと掻き回した。ばつの悪い事だと思いながらも、逡巡は然程に長くはない。
 「完全にフラれたんだよ、笑いたきゃ笑えコノヤローが」
 ふん、と肺を空にするぐらい大きく息を吐いて、銀時は態と軽く事も無げに投げつけてやるが、横目で見遣った山崎の表情に驚きの色は見えて来ない。からかったり嘲ったりする様子も無い。
 どう言う関係性かは知らない、などと山崎は嘯いていたが、この分だと銀時と土方との間にひととき生じていた関係性の正体にも勘付いていたのではないかと思えて来て、やっぱり、と思いながらもどうにも腹立たしくて口の端が下がる。
 「要するに、今までシツコかった虫が勝手にホイホイに飛び込んで自らお陀仏したっつう訳。もうアイツが虫に煩わされる事ァねーよ。今度こそ見当違いだ、確実にな」
 余り深刻に思いの丈を話すつもりの無かった銀時の言葉は、必要以上に自らを貶める調子になっている。山崎はそんな銀時の姿を振り仰ぎ見ると目を眇め、「そうですか」と納得した素振りを見せた。尤もそれは無粋だからと銀時に気を遣ってくれたと言う訳では無い。
 寧ろ逆だ。逆に確信を深めて、どう口にしたものかと考え始めている。真横でそれを伺う銀時に隠しもしない程あからさまに。
 間はそう長くない。銀時が逃げるも焦れるも出来ない程度の思考時間の後、山崎は鋭くは無いが剣呑な視線を横に流して口を開く。
 「副長は、ご自分がおかしくなった『心当たり』を何とかすると言って出て行きました。実際、旦那の言う通りならそこで確かに終わりだったんでしょう。
 実際、以前までよりはましになりました。少なくとも見て解る程に参ってはいないし不眠に悩んでいる様子もない」
 ですが、と山崎はそこで言葉を切って、視線だけをそっと持ち上げて銀時の方を見上げて来る。そこで初めて銀時は、気楽にどうでもよく聞くつもりで居た立ち話に己がすっかりと呑み込まれて仕舞っていた事に気付いた。
 土方の現状が──銀時の考えとは異なって今も猶余り宜しくないものであるとすれば、その状況が己に関係があるか無いかはさておいて、まず何より気にはなる。気にせずにはいられない。それは当然だろう。愛を請うた恋情自体はまだ銀時の裡から消えてはいないのだから。
 夢見が悪いと言う事は、恐らく土方の裡でも何かに決着がついていないと言う事だ。まだ疵を負い続けている──或いは、負い続けていたい──と言う事だ。
 「以前より余計に仕事に従事し鬱いでいます。まるで自分を追い詰めてでもいるみたいに。真選組の為にと言うのが副長の生き方であって、俺達はそれに口出しをする気はありません。
 ──でも、それだけじゃきっと駄目なんでしょう」
 そこで向けられた無理な笑みに、銀時は漸く一つの解を得ていた。
 そうだった。あの馬鹿で不器用な男は、知り合った頃からそう言う奴だった。まるで鞘から抜き放たれた刀の様に、己の役割をだけひたと見据えて、眼前の障碍を斬り捨て自らも疵付いて進む様な、そんな男だった。いっそ愚直な程に、己に課した士道(ルール)を護り抜く侍であった。
 土方十四郎がそう言う男だったからこそ、銀時の心は其処に吸い寄せられ留まって仕舞ったのだ。
 「…………そうしねェと、きっと手前ェが手前ェでいられなくなると、思っちまったんだろうな」
 吐息に乗せた密やかな呟きに、眼下の山崎が何か言葉を探す事は無かった。だから銀時は採点は待たずに続ける。
 「彼女(あ)の時の様に、真選組(てめぇら)の為に俺を突き放したって事だろ」
 降り出した雨の中、銀時を疵付ける為だけに放たれた言葉を思い出す。放った表情を思い出す。果たしてあの時土方は、『何』を殺そうと思ったのか。『誰』を疵付けようとしたのか。
 仮令虫の一匹でも、そこに一度でも宿って仕舞ったのならば、殺してお終い、とは行かなかった。居着いたものの存在を土方がどう認識して突き放す決意をしたのかは、銀時の想像では随分と己に都合の良い解釈になりそうだったが、最早その可能性の想像を疑うのも無粋であった。
 「烏滸がましい、って言われそうですけどね。旦那の話を聞いて、俺もそう確信せざるを得なくなりました」
 そう言って山崎の浮かべる苦笑じみた表情には、控えめながら自信と確信とが乗っている。それを斜めに見下ろしながら重たく嘆息する銀時に覚悟か決意の気配を聡く見て取ったのか、彼は憎らしい程に屈託なく言った。
 「俺の役割は土方さんが真選組の副長として在るのを護る事です。ですから旦那に今一度お願いします。……『心当たり』、ありませんか?」
 突きつけられたのは、問いでありながらも願うと言ったその通りに、明確に答えの知れた『願い』であった。『心当たり』と言う言葉に掛かるのは、どうすればこれが解決されるのかと言う解答をも含んだ意味だ。
 銀時の口元に思わず自虐的な笑みが浮かんだ。第三者の山崎にとっては、土方の懊悩も銀時の失敗も、単なる痴話喧嘩を見ている様なものだったのかも知れない。恋愛の難易度に晒されるのは常に当事者たちだけなのだから、山崎でなくとも傍目には下らなくて愚かしくて不器用なだけの一人と一人と映っても不思議はないだろう。
 それでも、その一人と一人にとっては、それは何よりも重視されるべき問題だったのだ。己のこころにいつしか入り込んだものを、どう認めれば良いのかと悩んで苦しむ、そんな恋だったのだから。
 「あるな」
 肩を竦めて銀時は自嘲を少し深めて笑った。
 恋を乞うも愛を請うも、当人達以外には何の価値も無いものだ。それでも人はどうしたってそれを求める。気付いて仕舞えば、知って仕舞えば、抗い難い程に情は募る。
 恋は人を大概の場合愚かにする。そして、それ以上に豊かにする。短くはない時をかけて、銀時は漸くそれを知った。
 土方もそれを知れば良いのだと思う。恋情は決して己のなにかを損なうだけのものではないのだと。
 (見てたから、今なら理解出来るよ土方。お前が一体何を怖がって、何を夢に見てたのか)
 言えばそれこそ、烏滸がましいと顔を顰められるかも知れないけれど。
 それでも、未だ好きなのだ。好きだから、解るのだ。この、ずっと胸の裡に根ざして離れなくなって仕舞ったこの恋情が、あのどうしようもなく愚かな関係性が、銀時一人のものでは決して無いのだと。
 解って仕舞ったのだから、仕様がない。そして、解って仕舞ったらもう、二度を諦める気にはなれなかった。
 今度は間違っていないと、確信さえ抱いて思う。







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