ゆめのすこしあと / 3 結論から言えば、元には戻らなかった。 「副長、余り根を詰めんで下さい。もう夜中ですよ」 「ああ」 深夜、副長室の灯りを目敏く見つけてやって来た寝間着姿の山崎にそう言われ、土方は生返事を返しながら書類にペンを走らせていた。 あれから一週間が経つ。その間、土方は碌に眠れていない。 人間なんだから、疲れりゃ勝手に眠れる。そう思って土方は不眠の三日目で既に無理に眠ろうとする努力を放棄していた。 布団でまんじりともせず寝返りを打つだけに飽いて仕事に手を出し始めれば、眠らぬ夜は更に加速した。恐らくは疲労なのだろう、肩に重量を持つ気怠さの様なものはある癖に、身体と脳は不思議に冴え渡り、眠ろうとはしてくれない。 何とか眠りに落ち掛けても、酷い夢でも見ているのか、厭な汗と共に目覚めては眠る気力を失う。 「副長、」 気遣わしげに声を掛けて来る山崎を無言で睨み付けて黙らせると、土方は唇にくわえていた煙草を抜きとって溜息と煙とを吐き出した。 「自己管理くらい出来る。良いからてめぇはとっとと帰って、それこそ寝てろ。余計な事に気ィ回して仕事でヘマしたらただじゃおかねェぞ」 言いながら、吸い殻の山になった灰皿へ煙草を押し込んで、土方は書き終えた書類をめくった。残りが少ない。あと三十分もしない内に一通りの残務は終わって仕舞うかも知れない。 「…………何日目ですか」 「あ?」 不意に投げられた固さを纏った声に、書類から目を上げて振り返る。部屋の入り口に正座した山崎の、こちらをじっと見つめる表情は酷く真剣で、何処か怒っている風にも見えた。 「不眠になってからです。……放っておけばその内限界が来て眠るんじゃないか、と思って黙って見てたんですが…、全くそんな素振りもない。この侭じゃそう遠からずアンタは参っちまいます」 「杞憂だ。ンな柔じゃねェよ」 言い返すのが早かったのは、内心でもそれを理解していたからだ。忌々しげな仕草で、心配の色を隠さない山崎を払う様に手を振ると、土方は再び机上へと視線を戻した。書面に刻まれた文字に乱れも誤謬も無い。いつも通り──否、いつも以上の仕事振りであると言う確信さえある。 いつもならば、土方の意志を尊重する山崎はそこで大人しく身を引くのだが、今回は違った。畳にとんと手を付くと上体を少し前に傾け、迫る様にして食い下がる。 「忙しい時期ならまだしも、今のこの、余裕のある時にアンタが寝食を惜しんで働く理由なぞ無いでしょう。この侭続けるって言うんなら、局長に直接──、」 「山崎」 押し殺した凶悪な感情を声音のみに乗せた響きは思いの外に剣呑に吐かれ、気圧された様に山崎は思わず口を噤んだ。その侭、二度、三度と何かを躊躇う様に口を僅かに動かし、然し伏し目がちに黙り込む。抗議を続けるか、続けるまいか。珍しくも瞬時の判断を出来かねて。 それ程に今の己は酷い表情をしているのだろうか。それこそ鬼の様な形相、だとか。 恐らくその想像と現実とに然程に違えはないのだろう。萎縮の気配を見せる山崎の様子からそう判じて、土方は苛立ちを唇と共に噛み締めながら眼元に殊更に力を入れた。益々に睨みつけるものとなったその表情に、山崎が喉を鳴らす。 だが、それでも。殺される、とは僅かたりとも思ってはいないだろう。そんな事を思う。 それが『信頼』と言う名の心の預け所だからだ。近藤が土方に抱くものの様に。土方が銀時に抱いていたものの様に。無条件でそれを受け入れる事の叶うその感情の判断の前では、常識的な理性や疑問など恐らくは不要なのだから。 それで、裏切られたとして。己の思った通りにならなかったとして。それを詰るのは信頼を寄せた相手に向けてではない。価値観も疑心も人生の経験則も、何もかもを覆らせられるに値したのだろう『信頼』を──それを信じた己をこそ、罵倒しなければならぬだけだ。 ……………その頃そこには、取り戻し難い瑕疵が刻みつけられて仕舞っているのだろうけれど。 首が胴体から離れるその時まで、山崎はきっと土方に向けるその『信頼』を変えやしない。だからこそ土方は殺気にも似た瞋恚を少したりとも隠さず向けて、切れ味鋭い刃の様にきっぱりと言い切る。 「下がれ。問題は無ェんだ。てめぇの分を弁えろ」 硬質な声は拒絶の言葉より明確な否定。 「……………」 息を呑んだ様に黙り込んだ山崎の拳が、自らの膝上でほんの少し震えている。恐怖にではなく恐らくは怒りに。だが然し、その怒りをぶつけるべき正当な理由は無い。感情は理由に足らない。私情は真選組の副長に与えられるべきものではない。 土方が「否」と言えば、それは否と言う事でしかないからだ。それこそが山崎に許されている『分』。信頼と言う感情だけでは変え難い一つの隔。 その理解を無理矢理に飲み下しながら、山崎は俯いた侭自らの拳を更に強く握り固めた。軋る様な吐息と共にゆっくりと口を開く。 「………納得は、出来ません。放ってもおけません。……ですがアンタにこれ以上反論を重ねる気もありません。それが俺の、ひいては真選組全体の総意です。副長が無様に倒れたり壊れたりなぞしないだろうと言う信頼です。 ……………後生ですからそれを、裏切らんで下さいよ」 「…………」 山崎の苦し紛れの様な、然し筋の通った痛烈な釘に土方は黙した侭何も答えず、ただ退室を促す様に軽く手を振って机へと向き直った。控える山崎には完全に背を向ける形だ。 土方からの明確な返答が無い事に、小さく溜息を呆れの様に諦めの様に残すと、山崎はそっと立ち上がって部屋を後にした。失礼します、の一言も言い残さなかった辺り、ああ見えて怒っていたのかも知れない。……否、怒っていたのだろう。 釘を刺す様な忠告に答えられなかった訳でも、応える自信がなかった訳でも無い。ただ、山崎に望まれた肯定の言葉ひとつが、酷く空々しいものの様に感じられて、土方は己が果たしてどう振る舞ったら良いのかが解らなくなったのだ。 同時にその事で、今までの自分が言われずとも当たり前の様に行って来た事を、理解して来たものを、今更他者に言われなければ自覚出来ぬ程に『忘れて』いたのかと、思い知らされた気がした。 (……俺は、真選組の、副長だろう) 自分の思う、近藤の傍らに立つ、部下に思われる、『副長』の姿は果たして今のこの土方十四郎に合致してはいるのだろうか。そんな途方もない不審や不安とが胸中にじわりと一つ染みを落として拡がる。 遊びの色事か、それとも気の迷いか──それこそただの私情だ。真選組の副長である男には、プライベートをその職務の妨げにする様な愚かしい真似は赦されはしない。 冷たい、温度の無い言葉。 淡々とした分かれの言葉。 肉体だけの愚かな関係に行き着く先など端から無かったのだと知っていた癖に、それでも今も猶それに惑わされ煩わされ続けている──愚かな、愚かな現状。 「………………クソ、が」 両手で頭を抱えて耳を塞いで、机に額を強く押しつけてその場に突っ伏した土方は、口中に湧き出す限りの罵声を脳裏に連ね続けた。 忘れるしか無いのに。棄てるしか無いのに。納得するしか無いのに。何を未だ諦め悪く未練を持て余し続けているのか。思い出しては夢になど魘され続けているのか。 それは、飽きたと言われ、是と応じて済んだ筈の、下らない、容易い、何て事の無かった筈の関係。 どうして、それを、棄てられないのか。 (忘れるしか無ェだろうが!棄てるしか、斬り棄てるしか無ェだろうが…!) 幾度となく叫んでみた所で、土方の裡の心はぎりぎりと締め付けられて痛みを訴え続ける。強がりに、偽りに、途切れた線に、千切れた感情に、向き合わせろと嘆き続けるのだ。 ……ここまで来れば、答えは最早明白だった。そして、それだからこそ土方の裡から苛む激痛は消えはしない。 棄てる事など出来ない程に。突然の情も無い分かれに。己の心がどうしようもなく悲鳴を上げているのだ。 棄てきれず、思い切れず、じっと蹲って痛みと苦しみとに堪えねばならぬ程に。『その感情』は消えずに留まり続ける。 「………」 やがて、乾いた吐息が喉を震わせる。無様な男の嘲い声が虚しく響いた。明白な筈のそこから目を逸らして固く瞑った。 この痛みも、眠れず己を苛む悪夢も、余りに愚かな己への自嘲も、決して熄みはしないのだと、土方は既に知っていた。 それでもそれを棄てなければならない事も、知っていた。 それがどれだけ続くのかは──知ってはいたが、解らなかった。 。 ← : → |